かなり前に毎年ある色々な方のセッションに触れる旅に泊りで参加(コロナなので宿は別々ですが)しました。色んな先生がたの知見に触れることはとても刺激的でありセッションのヒントがいっぱいあります。
なんというか、同じような療法でもセッションが上手くいく時ほど、
クライエントさんとセラピストの個性、が出て技法ではなく空気感がその人そのものになるので
技法って心理療法にとって重要だろうか、と思ってしまうのです。
ところで、
古いものより、より新しいものの方がバージョンアップしている感じがする
そんな気がしたり、この療法はわたしには合わない、これは合うかも、とか思うかもしれません。
正直言って、この療法であるならば、この段階の心理的解放、そして自己理解に相応しい、という療法の目的段階はあるかもしれません。
わかりやすく例えを出すとしたら、富士五合目までバスで行って富士の雰囲気を感じてお土産買えばいいかな、という人と、いや根本的にわたしは自分の足で頂上を目指すという人では同じ富士山に行く、という目的を持っていても目指すもの、目指すことが違います。
そしてそれらはどちらが良くて、どちらが悪い、ということではないのです。
あなた、の今の選択はどこなのか、ということだから。
今は五合目までバスで行くのが自分にとっての最善、
いやわたしは自分の足で頂上すことが相応しいことのように思える、
というね。
ただざっくり療法的に言えば、
ブリーフセラピーなどは五合目のバス、に向いた療法だと思います。認知療法よりも心軽く向かえる療法で明るいセッションだと思います。
そしてフォーカシングは頂上を目指す人向きだと思います。
でもここで注意が必要で、
どんな療法を使っても上手いというべきか、療法を使うことに才能が向いていて
そのレベルを維持出来るカウンセラーやセラピストが伴走を伴い、
あなたの覚悟があるならば、どんな技法であれ自然と頂上へ向かうことが出来てしまうものです。
だから技法がなんであるか、はやっぱり関係ないのだとわたしは思っています。
セミナー、勉強会、大学の授業、それらで公開セッションを先生がされると
すごい勢いでそれをメモしてその技法を真似しようとする方々が一定いられます。
そういう人は善いセッションを大抵、しない。というか出来ない(気持ちはとても熱心ですが)
やっぱり深いセッションをするセラピストに向いている人のセッションはまるで呼吸のようです。
互いが互いの無言のキャッチボールをしている、ただセッションなので
セラピストはクライアントさんのリズムを引き出し、待つ、ということが主ですが。
でもそんな中でもセラピストがまず自然体です。
そりゃそうなんです、そうならないとクライエントさんは緊張しているのだから。
緊張は安全ではないので、自然体、が安全ですから。
わたしはそこをカウンセラーやセラピストを捜されている方には見極めて欲しい、
とも思います。
そして効果があるそうしたセッションを提供している人の特徴として
分からないことがあれば素直にセッション中に
「わたしにはそこはわかりにくかったのでもう一度説明してもらえますか」
「そこをもう少し教えてください」
と聞いてくると思います。
わたしはなんでも知っている、という態度は出さないと思います。
そこは案外重要な気がします。
それを言えるセラピストでないとと思います。
だって、あなたのことを一番知っているのはあなた、なんだから。
だから あなたを尊重してお尋ねするのです。
「あなた自身を 教えてください」と。
知らないもの、分からないもの、に対して素直であること、
それはセッションだけでなく生きていく上でもとても重要なことです。
今回いろいろな公開セッションを観て益々そう感じました。
確かにそれぞれの療法により理論的、手法的にはいろいろあります。
しかしセッションが始まると、才能のあるセラピストは途端に自由になって
確かにここはそのセラピーの技法を使っているけれど、ふと、はたまた真逆なことを
してみたり臨機応変に対応していく。
けれど目的はたった一つ。
あなたのことが知りたい
あなたの声が聴きたい
ということです。
それはゴシップ的な属性や年収とか学歴とかではなくて
あなたという人の持つ個性、どんな音色(リズム)でどんな色(空気感)で
あるのか、というような本質な部分を、ということです。
それを自分で知る、そして表現する、ということがあるがままのご自身としての
生きる基本姿勢なのだから。
わたしはどちらかというと声掛けするセラピストですが
本当に黙ってする方もいらっしゃいます。
今年、そのセッションを拝見しました。とても感銘を受けました。
とても素晴らしく誠実なセッションでした。
静かな山のようなセッションで、安心とはこういうことだ、と教えて頂きました。
ありがとうございます。