本当の自分に還る為の指針セラピスト・カウンセラーの選び方心理療法ってどういうもの?潜在能力/潜在意識/二つの対する法則螺旋について

”あるがままの自分”の正しい定義とエセヒーラーの見分け方

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潜在意識の世界は、言語の誘導でそこに至ることは簡単に出来る。
言語で、そこ(無意識)に影響を与えることは誰でもテクニカルなことを学べば簡単に出来る。

だが問題はここからだ。

そのテクニックのみ(マニュアルに従うのみ)の中途半端には影響を与えることが出来てしまうことが恐ろしい。中途半端な自分への語らいかけ(アファメーション含む)もその一つになる。

ここがいけない。

なぜなら(臨床心理士や公認心理士であろうが)本質を理解をしていない人が行うと潜在意識内のバランスを崩すからだ。
才能のない人=テクニックだけの人、のやることが悪意があると言っているのではない。(あえて悪用する人は別)その人は一生懸命やっている。また自己セラピーなどと推している人もそうだ。そしてそれを頼りに自分でそうしたワークを行ってきた人も然り。しかしそれはやめた方がいい。
なぜ問題があるのか、それは全体が見えていない為、一部に良かれと思っても歪んだ状況を更に進めてしまう可能性があるからだ。何が良いか、何が悪いのか、物事はすべて結局は調和されているかどうかだからだ。


その状態を視覚化してみようと思う。

それはブランド品や高価な洋服であろうがチグハグな着こなしをしている人、立派な家具をそろえているけれど嚙み合っていない部屋、のような状態と言える。

そして反対に本当のおしゃれな人、センスがある人ならばどうなるか。
値段もブランドも関係なく、それぞれの洋服、カバンを生かし、調和のとれた、そしてその人に似あったスタイルに仕上げる。

悩んでいる人、生きづらい人、心に傷を負っている人、その人たちは様々な結果、心のバランスが崩れたために、神経経路も脳神経も同じ回路しか使っていない(または交流に使うべく本来育成しなくてはいけない回路の開発がない、または過剰な反応をしめす炎症状態や肥大化状態)ということなのだから。

本来の自己、である、ということ。
それはその人の願望が叶う、なりたいものになる、という結果より重視されるべきは、その状態とはその人にとってのバランスの良い、心と神経と身体を備えていることと言える。調和された自己、と言う状態だ。そうするとその人の身体、心、神経、エネルギーの循環が良くなって、それぞれの器官、機能が適材適所に一番良い状態で働いてくれる、これが“自分自身を生きている(=あるがままの自分)”、という状態だと定義できる。(自分のベストを出しやすいのだから、夢に向かいやすいし、そのものの自分に合う人と友好関係を築きやすくなる、結果、その人の本来の望みに近づくことになる)

はっきり言ってそれ以上でもそれ以下でもない。

単純である。

しかしシンプルは難しいのだ。これが体現できれば故に他者と競争することもいがみ合うことも卑下し合うこともない世界を体感できるのだ。

また自己実現という状態をわたしが定義するならば、“自分自身を生きている”、という状態を人生において保つ時間を増やし、全力を自分のすべきもの(その人の才能が向いた世界で)自己と他者の為に力を尽くしていることが出来たか、としたい。

話を元に戻す。

テクニカルのみの人間(ビジネス心理学、スピリチャル、公認心理士、臨床心理士、どこにでもいらっしゃる)はテクニックに溺れている。


一例をあげたい。

リンクは張りたくないので検索していただきたいが八木龍平氏という霊能力を売りにセミナー?をしている人がいる。そちらの世界では有名?らしい。だがはっきり申し上げる。

この人に霊能力は、ない。

それはこの人がフォーカシングについて本質を理解しないで浅い知識のみで書いている記事を読んだからだ。この人の言っていることは正しくない。(他にもそんな人はいっぱいいるが、省く)
それはそうとして、じゃあなぜ霊能力がないというのか。シックスセンスが発揮されている身体をしていない、というのもあるが、文章でもそれを認識できるのであえてここに書く。皆さんがたまたま他で似たような事例に当たったとしたら参考にして頂きたい。それはフォーカシングとは心理療法の技法の一つであるが、この技法を理解して使う回路は霊能力などと繋がる回路と同じものを使用しているからだ。(こんなことを言うとジェンドリンに怒られるがあえて言う)
本当に霊感やらの能力があるならば、フォーカシングを理解できる、というかわたしの感覚で言わせてもらえば、教わる前から“知っている”という懐かしい感覚になるはずなのだ。それがセラピストになる人間には必須のセンスであると言っても過言ではないと思う。そもそもちゃんとある程度セラピーをしていたら自ずと気づくものだから。その後それをズレて使う人も見かけるので、こちらをそのまま溺れず奢らす冷静にいられるのも同じようなセンスが必要なのかもしれない(いや最近はこちらの方が大切かと思っている)心理の資格でも知名度でもなんでもない、とこの8年間大学の世界から巷の心理セミナーや所かまわず色々見てきて、思う。

つまりはこの八木氏は癒しの心理療法として、

僕の専門ではないがヒーラーとして紹介しますという他人ごと的に言っているが、理解していないことで図らずも自分の霊能力がないのを露呈してしまっているのだ。そしてついでに言えばこの人とつるんでいる人、その人達もすべて能力は、ない。

なぜなら能力がない人に“ある”と騙されている訳だから。そして互いこの人は能力がある、パワーがすごいとか言い合っているからだ。能力があるかないか、そんなことは本当にある人ならわかるはずなのだから。

ちょっとフォーカシングについて、適当なことを言っているので本気で怒ってしまい記事にしてしまったが、それだけではないので書いておきたい。

テクニックに走った人の本音がブログに書いてあるから、それを要約して終わりにしたい。

間違ったカウンセラーなども共通しているから是非参考にして頂きたい。

要約

  • ヒーラーはダメ人間でいい。人格者でなくていい。手法(=テクニック)さえ守ればいい。だって高次元とクライアントのパイプ役だから。透明なパイプ役に人格はない。だから人格者でなくていいのだ

→間違い:人に相談すると、その人の意見を言ってきませんか。
つまりはあなたの話を聴く、というよりも、相談された人の独壇場となってしまう(=相談された人が主役)になってしまうことがあります。“聴く”ということ、それも話す人のそのまま、をただ聴く、ということはある程度の精神的な成長か成熟がないと難しいと考えます。テクニックとここがなければ人の話は聴けません。先ずその人が聴かないと、パイプ=透明な存在、にはなれません。わたし(あらた)が人格者、とは思いません。しかし様々な経験を通し、最低限の聴く、が出来る成長をしてきたのだな、とは感じます。

  • 「癒しのフォーカシング」なぜ良いか。それはジェンドリンという学者が心理療法が成功した人のクライエントを観察した結果、セッション時の話し方が違うという結論に達したから。話し方に注目してください。理性的な発言は明瞭にしっかりとした、しかしからだの感覚に注目するとゆっくりとした話し方になるから、です

→これは本当です。実際その後の研究者がスケーリング表にしているクライエントの反応の一つではあります。がしかし、こういう傾向がある、また慣れていない人、初めて感覚に触れた人がそうなることもある、ということでその話し方のみを判断基準にすると危険です。実際、セッションに慣れた人などは思考より早く感じることが出来るし、流ちょうにも話せたりするからです。その人のコンディション、触れる内容でも変化しますから、そこだけに着目しません。わたしのやり方だと、クライエント本人が気が付かない変化を自分で体現するので、話し方もスケーリングの一つではありますが、チェックする割合で言えば10%以下のこと。そうした兆候だけをととらえて追い求めてしまう、それがマニュアル主義の怖さです。あくまでも判断は総合的であり、多角化した視点、全体のバランスが見れる目線が求められると思われます。

そのテクニックを使えるか否かに重きをおき、かつ、そのカウンセラーないしスピリチャリストかコーチが望む結果へと誘導していく。なぜ、結果に誘導してしまうか。
それは先が見えないからだ。

前の記事にも書いたが先が見えない不安は恐怖を産む。
テクニックだけで潜在意識に行くと道は見えない。上手くは言葉に出来ないが、想像するにクライエントと共にカウンセラーも道に迷っている。だからこそ、カウンセラーの思考で考える、と言うか、思考で考えつくつじつまの合うストーリーへ、カウンセラーの信念にある正解=結果へと誘導してしまうのだと推測される。


あなたを解放するセッションを受けたいなら、セッション中に、こちら(セラピスト)が問いかけた言葉に、それは違う、とあなたが答える場面も必要なのだ。いや、そこがあなた(クライエント)が自分を取り戻す一歩とすら言える。これをフォーカサーズティーチャーと言う(フォーカサー=クライエントとセラピストが対等な関係であり、クライエントの想いを尊重する、ということ)
感じていること、は、わたし(クライエント)が一番知っている、わたしこそ、わたしの物語の主役である、と自己主張をし始める産声なのだ。この声こそ、聴かねばならない声。
一方的にセラピストやカウンセラーが道を押し付けることではない。

故にわたしたちはあえて問いかけをし、あなたの中の違和感を揺さぶっていくのだから。
そこから、あなたが立ち現れてくるのだから。

そう、だからこそ、あなたがあなたらしく表現出来る場に行く、と言うことは、セッション中、誘導者であるセラピストこそ全く行き先不明だと言うこと。
わたしたちが見守るのはあなた自身が解放状態になっているか(詳しく言えば神経状態を観ている)そして思考にはいかないようにしつつ、あなたの表現を引き出すのを理性的に援助し、見守ることで、その人の人生に許可を出し、その許可の立会人となることが、わたしたちの仕事だ。


※ ※ ※


もう7年前になるのか。
かつての師の今の残念な姿を見て情けなく思う。
実は八木氏との記事に触れたのはかつての師が接触したからだ。
また共にカウンセラー技術を学んだ同期の道を外れた姿を見て、本当に軽い気持ちでテクニックだけを学ぶことの悲劇を思う。
それは巷のビジネス心理学だけではない。
博士号をとり、海外に留学した立派な経歴の人たちのグループでも、感じる。


どの世界でも言えるが、向き不向きがあるのだ。

向かない人がテクニックだけでやることのは、こちらの世界では特に目に見えない為に間違いに気が付きにくいように感じる。
その為に臨床心理士はビデオで撮影を何十回して指導の先生からチェックされたりする仕組みをしてきたのだと思う。または公開セッションをチェックされる。アメリカではそれをされて逆に病んだセラピストすらいる。けれど、どうなのか、と言う場面も見てきた。やはりそうすると人はルールに縛られてしまうのだ。ルールが神様になってしまう。そうするとそのやり方(テクニック)は守れるが、クライエントは救われない。

それでいいのか。

わたしはルールやその手法の守り手として存在などしたくない。
クライエントによるクライエントのクライアントの為のもの、それがセッションの神髄だ。

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