恋多き女の友人が40歳過ぎで
めでたくゴールイン。
そんな彼女と結婚生活3か月を
過ぎて久しぶりにランチをしたら
・週に一回は、大浴場施設に行って
リラックス
・週に一回は、ご飯を作らない
・必要以上に夫の世話はやかない
と決めているそう。
仕事をフルでしているし、
旦那さんは半分自宅勤務もあるので
家事も半々。
わたし
「そりゃ、なかなか強気だね」
友人
「うん、そうね。
でも体力と今までの経験の問題。
20代、30代での結婚なら
もっと夫に貢いだと思うけど、
今は自分が無理しないで出来ることだけを。
夫に期待させない維持できる生活を目指してる」
なるほど、と大納得。
振り返るにわたしは、
夫に貢いで貢いできて。
それは愛に基づいたものというよりも、
相手への期待がベースだったから
10年後、心折れた訳で。
いつか変わってくれる。
いつか自分がしたように、
自分を思ってくれる、
自分を見てくれる、
自分にやってくれる、
自分を分かってくれるという
幻想を追いかけて。
そう、単なるわたしが
勝手に夫に期待した願望。
夫はやってもらう、
という受け身の人生を歩んでいる人。
それ以上でもそれ以下でもない、
そういう人。
ただそれだけ。
もちろん氣持ちは移り気だから
明日、氣が変わるかもしれないし、
死ぬまでそれを通すかもしれないけれど。
それを決めるのは本人だから。
わたしがそれに良し悪しと評価したり
変えようとするのは越権行為なのだと
夫との暮らしで痛感。
だからわたしはアドバイスや
カウンセリングとかは
本人が望まない限り
言わないし、勧めない。
”だってその人はそれを今、味わうことを選択したのだから”
それでも、このまま誰が見ても…
というシチュエーションがあったりする。
そんな状況にあった時にほっとくなんて、と昔は後ろめたさがあったけど。
最近は輪廻転生があるかもしれないから、と思ったら心から、それでいいんだ、
と受け入れられるようになった。
例え孤独の内に死んでいくような状態だとしても、それはきっとその人は孤独という学びを味わい尽くしたいからしている今世なのだ、と。
来世は究極その反対を味わうためへの準備なんだろうな、と思ってる。
もちろん、来世が本当にあるかどうか立証するものは何もない。
「パスカルの掛け」と一緒だ。
フランスの哲学者のブレーズ=パスカルが唱えた神の信仰を問いかけた、
”あるかないか証明出来ないならば、信じてみるのにかけたらどうか”と言うもの。
友人Yの結婚に想う。
結婚、おめでとう。