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同情は同じものが二つ。悲しいと悲しい。
共感は、同じものを見つめながら、違う者が二つ。悲しいと悲しんでるあなたを受容する人。
見つめてるものは同じでも、悲しいを感じてる”あなた”自身を受けとめる為には、もう一つの肉体(=存在)でいなくてはいけない。
だから同情しても、それはクライエント(感情に溺れてしまっている人)と同じ状態、同化してしまっている訳だから救うことは出来ない。感情に沈んでいる人、悲しみの底に居る人がして欲しいこと、
それは
わたしを抱きしめて、なのだから。
どんな想いを思おうが、感じようが、
どんなわたしも抱きしめて=存在を認めて
だから共感しなきゃいけない。共感は共に同じものを見つめながらあなたを抱きしめる肉体は別にある。あなたが感じるものを感じながらも別の存在として、あなたを抱き受け、温める為に。
たしかプラトンが孤独は昔一つだった人は二つの性に神によって分けられたせいだ、と説いた。
だから互いが割れた半身を求めているから孤独なのだ、と。
しかし本当の孤独を埋める為には”他者”という別の存在が必要なのだ。確かに人は、アダルトチルドレンであったり、またはたまたま合わない人の集団に囲まれ、いや、若い過ちなども含め、人が人を傷つけることも多い。だか、それと同時にその傷を癒すことが出来るのも他者なのだ。自分自身を受け入れること、それも大切。そしてそれを受けとめてくれる他者。それも必要。
つまり人は人同士の関係性の中に存在している。(詳しくは人だけではないが)
もしあなたが人に対して怖がっていたとするならば、それはあまりに傷つけられた過去のトラウマのせいか、またはそれにより引きこもって(文字通り家だけでなく、学校に通い、職場に行っていても心が引きこもっているのも含む)経験が少ないからだ。
そして心理療法、セッションがセルフではあまり効果がないのも、この原理が一つ関わっている。ということで、
まとめ
同情とはAとBがAAと同じものになってしまうから、認めることが出来ない。認める為には”他者”として存在しなくてはいけないからだ。つまり共感とは、その人(A)の目線となって物事を感じつつ、その人そのものを受容する存在(B)として居続けて初めて成り立つものである。
