❏【解説記事】 自己回帰セッションと心理セラピーの違いとは?

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心理セラピーは”母性“を主たるものとし、
自己回帰は”母性 父性”を両立させたセッション

母性とは受け入れ包み込む癒すもの、父性とは知恵や社会性、規範を与え、叡智を持てるよう指導するもの、となります。では具体的にどういうものか解説していきます。

心理セラピーってどんなもの?

トラウマやショックな出来事、悲しみ、苦しみ、から人の心はバラバラになってしまいます。心は分解され、それぞれがそれぞれの出来事や悲しみ、苦しみを抱えたまま、閉じ籠ったり凍り付いたり、その時と感情を抱えたまま潜在意識の奥へと沈んでいきます。

そんなことを…いえいえ、それはあなたを護る為に、心の一部が犠牲となってしてくれていること、です。今のあなたがその恐ろしい出来事、悲しい出来事、張り裂けそうな出来事を思い出さなくてもすむようにしてくれていること。

だったら良いじゃない、とも言えないのです。

何故かと言えば、心はあなたのエネルギーでもある、とも言えるのです。感情の元だから。感情はエネルギーの塊です。ですからあなたのエネルギーが100だったとして、ある出来事が20エネルギー分だったとして、それを潜在意識の底に置く為には、単純に100-20=80、ではなく、20を抑え込む為に+30のエネルギーを使わなくてはいけません。

つまり100-20(トラウマ)-30(抑え込むエネルギー)=50←あなたの使える分
となり、これがうつ病や悩んだ人が何もしないのに疲れている、という現象をおこします。

だから、あなたの心の欠片を一つ一つ集め、その声を聴き、統合し、100=心の統合(核を作る)という状態にする、これが心理セラピーです。

自己回帰セッションってどんなもの?

魂と体、心と体、魂と心と身体、などと分けて表現したり言ったりするようになったのは西洋文化からです。

もともと日本文化では全てをまとめて、身=魂+体+心 と言っていました。

死んで魂がなくなった肉体をさし、からだ=カラっぽとなった訳です。

近代が始まったヨーロッパで魂と身体となった、というより魂や心と言われたと言うことはアメリカ大陸の発見と同じで、新しく誕生したと言うより、身から心や魂と感じる部分が分離してしまった、とも言えるのです。

しかし今や日本でも、生きている時から肉体を”からだ”と表現することからわかるように、現代人は魂と心と肉体が乖離した状態で生きています。心理セラピーで心を統合したように、統合した心と肉体、そして魂という心の更に奥の領域へと進んでいくことで、魂と心と肉体を統合するトータルセッション、と認識したいただけるとわかりやすいかと思います。

潜在意識は右脳の領域で、エネルギーや繋がりを担当しています(人とのつながりだけなく、更に奥の深層心理の奥の集合心理、のことも言っています。集合意識の繋がり、ここを利用して遠隔でセッションが可能になり、いわいるサイキックの能力はここにアクセスすることで発揮されますが、深海のように危険な場所なのであえてそれを意識的に望む必要はありません。)

そして顕在意識は左脳の領域で、言語、意識の方向性、そして個々人が個々人である為の領域を担当している。繋がっていたら一見良いようですが、それでは”個人”つまりあなた、は誕生しません。また言語がなくては時間という方向、分類、整理もままなりまえん。左脳もとても大切な機能を果たしています。(たまに右脳が重要という人がいますが、とんでもない、役割が違うだけで両方共に連携を持って使えることが重要)

ですから、魂、心、肉体、そして右脳、左脳をバランスよく使う為に必要な身体からのアプローチ、言語からのアプローチ、心の統合、それら各パーツがのびやかに連携連動し、”本来のあなた”を再度発見、誕生させていきましょう。

その統合した”あなた”が人生のテストをパスし、生涯かけて自分である瞬間をどれだけ長くいられるか、それが自己実現を果たした人です。なぜなら個人としての能力が発揮出来る瞬間とはそのあなたが統合した瞬間、であるから、です。どうぞ持続するようたゆまぬ努力をされてください。

その時、あなたはあなたのリズムを取り戻し天と地をつなぐ大樹と同じ役割を果たし、周りの人を照らす人、となってほしいと願っています。(その為に人類は腰を悪くしながら“立って”いるのです)

わたしはこの地球に木を植えにきた植木職人のようなものです。
是非、あなたらしい根を張り、あなたなりの、あなたらしい枝ぶりを拡げ、時に花で、時に木陰を、時に実をならし、誰かを楽しませて欲しいものです。そして木とは実は根で近所の木々と交流しています。栄養のやり取り、会話も、です。一人では木も生きれない。都会の木が悲しそうで森の木が元気なのはそのせいです。
だからあなたもどうぞ心を開き、あなたの隣の人としっかりと交流してください。

セッションを効果的に受ける心構え

自分自身しか自分を救えない

「自分自身しか自分を救えない」これは心に刻んで欲しいです。冷たく聞こえるかもしれません。しかし“本当に変わりたい”、“自分でありたい”、なら常に正しく冷静に自分を見つめ続ける勇気とそれを維持し、前に進む為の努力が必要となります。その過程は時としてとても孤独であったり忍耐を必要ともする。

それでも、と言う気構えと覚悟がないと続かないから、です。しかしそれを維持出来るのは自分自身でしかありません。

そして本物のセラピストの力量とは正解なあなたを映し出すこと、あなたから本当の言葉を、深い深淵に居るあなた自身の本当の言葉を引き出し、ありのままのあなたをとらえられるか、です。
わたし達はあくまでも鏡、であり助言や指南しか、できません。神様ですら啓示を与え道を指し示すことしかできないのだから。
実際に行動(=生きること、は、本人しか出来ない)するのは“あなた”です。あなたの人生を歩めるのは”あなた”だけなのだと言うことを覚えておいてください。

強く優しい人間になりたい、それにはどうしたらよいのか

本当の強さや優しさは正義や正論で相手や物事を断罪し、裁くことではありません。また心配だ、心配だ、と本人から依頼もなしに手を出したり口を出したり、あんたは平気なの?と相手に念を飛ばすこと(=「心配だー、心配だー」と思うこと、考えること)ではありません。

状況や相手を慮り(おもんばかり)、待ち、赦すことが優しさであり、強さ、です。

慮る(おもんばかる)、とは相手の立場になり考えること、
待つ、とは相手の意志やペース邪魔しないこと、即ち相手の心を尊重すること、
赦す、とは自分とは違う選択や考えをしたことを受け入れ認めていくこと、です。

アダルトチルドレン は、親、の立場でしか考えてもらえないから自分の感情は抑えられ、つまりは慮られず、親のペースや希望の選択を押し付けられ、自分の選択は尊重されず、つまりは待ってもらえず、親の望む理想像を強要された、つまりは自己であることを赦されなかった、のではないでしょうか。

ならば、あなたは自分自身を慮り、待ち、赦し、また、あなたの周りに居る人に対しても慮り、待ち、赦していかねばなりません。
それは、義務です。なぜならそれは愛だから、です。あなたが好き、子どもを愛する、などの個人的な愛ではなく、生きる上での、命の輝きとしての愛、です。
だからそれをすることは、あなたが生きて活かしていく前提として、周りも生き活かして行くための、最低限のマナーであります。なぜなら“あなただけが、生き、活かされる”それはないから、です。あなたも生き、活かされるなら、相手も、いや、全ての存在が、生き活きる権利があるのです。

生き活きる権利の中には、間違えること、それもあるのです。間違えは悪いことではありません。間違えなくては学べません。いや間違えだけでなく、ネガティブなもの、全てです。病気、死、失敗…。
問題はそれらを経験した中で、そこに至った経緯で何が間違いだったのか、に気づくことが出来るかどうか、です。あなたを本当に心から愛してくれている人は誰か、という真の愛に気づけるかどうかです。その人が失敗し間違え病を通して気づくチャンスを奪う権利は親にもあなたにも誰にもありません。

ではなぜ自分より他人を心配する場合があるのか。それは心配しようとする心の動きの発端が、自分が不安から逃げたい為に、①その人をコントロールしたい、または②他者の問題に注目することで自分自身の見たくない、やりたくない課題から注目を逸らせる、などの利点の為に行うのです。人は自分でしか救えません、だからその他者の問題は永遠に解決することは、あなたにはできません。つまりは永遠に解決しない問題を、さも自分の問題だ、と抱えている間、自分自身の弱さやズルさから目を背けることが可能になります。
そう、だから心配は楽なのです。だって自分ではしないで済む問題について考えているから。自分ごとではないから。だってその課題とは、その人のもので、あなたのもの(=人生)ではないのだから。

「いや、心配なのは愛しているからです」か?

いやいや違いますよ。
本当に愛しているなら信じて見守ること、をしてください。繰り返しますが即ち、その人、相手を慮り(おもんばかり)、待ち、赦すことです。それが愛する(アガペー、人類愛です)ということです。

信じて待つ間、とても、はらはらしますよね、大丈夫なの?怖い、どうしよう、そこに居るの?どこにいるの?どうなってるの?やってるの?しかしそれらの不安を耐えることが強さを育みます。待つ、それは本当に精神力がいることなのです。
それは無条件に信頼すること、だから。古今東西の神話で繰り返し信じて待つことの難しさを描いているのはそのせいです。ロトは塩の柱になり、イザナギはイザナミを失い、オルフェイスも死んだ妻エウリュディケを蘇らせることは出来ませんでした。本当に着いてきているだろうか、と、我慢出来ず振り返ってしまったから。

他者をおもんばかることであなたの中に優しさが産まれます。そうしてあなたは精神的に成熟の階段を上がり、大人になる。
どこまで深く愛せるか、それはあなたの大人度に比例しますが、それも他者と競争することではないでしょう。昨日の自分より成長したいか、なのだから。
だって変えられるのは自分自身だけだからです。それも口出しするのはその人の境界線を越えることです。だからと言って、一切の口出し無用と言う放任主義は違います。親であるなら子どもに、また大人であるならまだ年若き者に、上司である、リーダーであるなら、後継ぐ者に、提言、指導はしなくてはいけません。

人は誰しも成長したい、より良くなりたい

それは2歳の子どもがなかなか出来ないのに靴を自分一人で履きたがり、出来なくて癇癪を起こしながらも手を出すと泣いて反抗する様、を思い出してもらえたらわかるかと思います。
やれない自分に腹を立てつつ、でもやろうとしてもがく姿を。あれはチャレンジしたいと言う人の姿です。内側から成長したから(二歳になり準備ができたからやりたい、と言う内から湧き出すエネルギーに突き動かされてのこと)

出来ないからやらない、前にして出来なかったし、わたしは○○だから、あの人は出来るけどわたしには無理、大人になるとそう自分を決めつけてしまいがちですが、それはもうやめましょう。
自己回帰の基本が終わったなら次のステージに向かわなくてはいけません。なぜなら準備を整えるのが自己回帰セッションだから、です。

自分を活かし、自分自身として生きる

癒しが終わり、エネルギーが出て、そうした準備が整ってもチャレンジしない、と言う状態は自分を活かして生きている状態でしょうか。
違いますよね。活かしてないなら(=チャレンジしないなら)それは自分をバカにしている状態です。だって在るのに使わないなんてそうでしょう?その時は心理セラピー的な母性の癒しの、居ていいよ、や、ありのままでいいよ、と言う受容ではなく、やらなくていけないよ、と言う父性の番です。そこを勘違いしてはいけません。

被害者意識、庇護者意識としての思考の癖から抜け出さないといけません。それは自分自身で行動を起こす、課題にチャレンジしていくしかありません。これは誰も肩代わりは出来ないし、誰かと比べるものではありません。
なぜ誰かと比べることが良くないか、それは誰かと比べて得られるもの、それはやらなくて良い言い訳や出来ない理由しか見つからないからです。

エネルギーがあればあるだけ義務が生まれます。もし大きい人間になりたいなら、義務も果たしましょう。権利ばかり主張するのではなく、義務と権利を持って初めて人は自立しています。自立してこそ、自分自身を生きること、です。義務を果たすとは責任を持って生きることです。また何もかも自分で背負い込むことが自立ではありません。自分が出来ることはし、他の人に頼むことはきちんと依頼して相互関係の交流の中でバランスをとって生きる、ということです。依存や搾取からの脱却、とお考えください。

あなたがもし、過去、アダルトチルドレン や虐待を受けた傷により出来ない、やれない、または過剰となっていたこと、それをしなくてはなりません。やめねばなりません。
それが義務を果たすであり、責任ある自立した人生と言うことです。
例えば自己回帰で軸の言葉をお渡ししますが、そう言う世界を求めているなら、あなたが創るしかありません。だって求めたのはあなた、なら、ください、ではなく自らがその理想を実現すべく行動を踏み出すことをしなくてどうするのでしょうか。

自己回帰、つまりはあなた自身を活かして生きる、とはそうしたことなのです。

その上で、特に大切にしたい世界観は何か。自分の核となる軸の言葉※はなんであるか。

(※自己回帰セッションにてあなたの言葉をお出しします)

仲間なのか、受容なのか、自由なのか、平等なのか、響きあいなのか。
それはそれぞれの個性であり、表現する方法も場所も違うでしょう。それを可能な限り、あなただけの表現と場所で、まず、あなたが実践していきましょう。誰かがしてくれる、ではなく、あなた、がするのです。だってあなたの世界観なのだから、あなたから、です。

例をあげましょう。

仲間、と言う言葉があるなら、自らが心を開き仲間を作る為に誰が仲間になってくれるだろうか、と探し、受け入れ(=その人の存在)、その人の言葉に耳を傾けてなくてはいけません。

自由、と言う言葉があるならば、自分の自由も認めるように、相手の自由を認めることです。それは相手があなたから見たらたとえ間違えた道、または不幸な道に行こうが、それを相手が選んだならばその人の行く道を受け入れて尊重する。そして縁を切った訳ではないから、心はフラットだからもし相手が戻ってきたら笑顔でこんにちは、です。出入りは自由なのです。これが、本当の自由、です。

さあ、初めて行きましょう、あなたの世界を創っていきましょう。あなたの為に、そしてそれに賛同してくれる人の為に。そして、どうか命の交流という響き合いの中にあなたがいられますよう。

 

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