友だちの作り方、難しく考えてない?

あらたのセッションに関して
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こんにちは、名前はなんていうの?
ここまで言ったら友だちの始まり。
大人になってからなら、ちょっと飲みに行こうよ
とか、ちょっとかき氷たべてかない?
とか、疲れたねー、お茶しない?
それでいいんだよ。

何か特別なことをしたり、言ったりしなくて。

ただ、仕事終わって帰る時になんとなく、
今日は疲れたねー、喉乾いてたからおいしねー、
おつかれさまー、よい週末を
そう笑顔で伝え合えればいいの、友人なの。
勿論、お茶して、食事して、呑みに行って、とより深くなってもいい。
ただ、そこまでしなきゃ友達じゃない、っていうのでは、ない。
もう、挨拶が気持ちよくお互い交わせたら、それは友好の始まり、
友だちの始まりなの。

今の人は家庭もそう考えている感じがして。
どっかお出かけ(モールとかでも)しなきゃ、夏休みだから旅行に、
せっかくの連休だから何かしないと、誕生日だから飾りをつけて、とか。

休みの日、家族が家に揃ってまったりしていて、
そのままなんだか暑いから昼寝しちゃったね、ったから起きて
ぶらぶらアイスでも買いに行こうよ、夕涼みがてら、とか
せっかくだから鉄板だしてなんか焼いてみようか、とか
暇だから捏ねたパンを好きな形にして好きなもの塗って食べようか、とか
そんなのでいいのではないか、と思う。
(うちはそんなんです、洗濯物一緒に干す、とか。)
今の家族は無理してイベントをしなきゃいけないというか
イベントしないと家族で居られない感じがして、とても窮屈。

もちろん生活の場だから、しなきゃいけないこと
報連相をして家事や育児や周囲の仕事をしなきゃいけない共同体ではあるけど。
それ以外はただ居るだけで、いいのではないのかなあ。
家族も、友だちも。

もちろん旅行やお出かけで楽しむのもしたいなら行くのは楽しい。
けど今の人たちは何かしなきゃいけない、に追い立てられてしている気がしてならない。
デズニーでも万博でもなんかのイベント会場から公園とかさ、
本当に楽しそうにしてる(家族中がね)家族って少ないくない?
疲れた顔して、でも、なんか一緒にお出かけすること、をこなしてる感じ。
家族行事タスクをこなす、と言う状態。

わたしの昔の記憶を引っ張り出すと学生時代、友達が遊びに来て、もちろん、話したり、髪型研究したり、お菓子作ったりわたし達しかしないニッチな遊びしたりする日ももちろんあった。
けどなんとなく放課後そのまま家あがってく?的な流れから、そのまま気づいたら寝転んでた友人が爆睡してたりして、まあ、そんな疲れてんなら寝とけや、って感じでそんな友だちの横で漫画読んでて起きたら夕方で帰るわーって友達は帰ってなんて日もあるわけで(大人になってからも、あるし)じゃなんなのよ、って感じもありつつも、でもやっぱり友人が共に部屋にいる時間ってそれはそれなりに変化があって、まあ、そんな日もあるなあ、みたいな。

それに似た感じで結構長く犬と暮らしてるけど
今日はお互いつんけんしてて、散歩中もつまずいたり、このコースは嫌だと駄々こねられたり、
匂い嗅いでる間もなんか長いなあ、ってイライラしたりする日もあれば、なんでしょう、このパーフェクトなお互いの呼吸が阿吽の散歩は、って日もあって。
かと思えば、こっちはつんつん、あっちは気を遣ってくれて、翌日はその逆で。

暮らしって、生きるって、生き物の関係って、そんなのじゃないのかなあ。
そのお互いのコンディションやらを容認してくれる、っていうのが友だちであり家族であると思うのよ。イベントをこなしていくのは家族でも友人でもないのよ。
イベントを積み重ねることが思い出も重ねることではなくて、日常の日々と機微と経験を容認し合うことが絆を深めるのであって、

その人が違うことをしていたとしても空間を共有できること
何もないことを時間を共有できること
沈黙があっても一緒に居られること

これが大事


わたし達は仲良しである、愛し合っている
それを形で、行事で、見せること、が本当の愛や信頼ではないのです。
今の家族や友人通しはその証拠集め、スタンプ集め、ポイント集めに必死な気がする。

そもそも誰に証明したいの?
この人と友人であるということ、そして家族であるということ。
証明は自分と相手が想いがあれば、誰かに見せつける為にするものじゃない。
何か確認することじゃない。

わたしは、あの人がなんか好きだ

それでいいのです。
それがまず一歩。

こういうのは自らの心の中での想いだけでいいものです。
それが本当の宝物でしょう。
誰彼それに言うものでも、自他ともに証明するものでも、ない。
また証明させるものでも、ない。
心からぽっと生まれてくる温もりなのだから。

「どこに行きました!」
「こんなもの買ってくれました!」
「こんな頑張ってくれました!」
してくれなくてもいいのよ(なんかしてくれたことも勿論いいのですが)
見返りを求めてしまう、貢いで欲しい。
してくれた、こと、だけが、証拠じゃないでしょ、ポイントじゃないでしょ。

今の人は目に見える、手に取れる、証拠がないと怖いのね。
それぐらい、淋しいし、自分に自信がないの。
貢いでくれないと、相手が動いてくれないと、それぐらい努力してくれないと
満たされないぐらい、孤独。

でも本来は違うのよ。
自分の淋しさを物理的な物であったり、言動や金物形で表したって
本当も欲しいもの、それはあなたの中のなにか小さな温もりや灯なんだから
埋まらないの、それでは。埋まらないのよ、胸の中の孤独は。
だってそこは自分で満たすものだから。

つまりはね、
本当に好きなモノって側に居てくれたらそれでいいじゃない


そういうもんでしょ?
なにかしてくれなくても、存在だけで価値がある
それを他人に想えるってことは、自分もそう思ってるってことなのよ。
だからね、相手になんかしてくれ、形が欲しい、見返りがって望むこと、
それは自分の価値もそう思ってるってことなの。
それはつまり、何かしなきゃ価値がない、って自分を否定してるってことなの。
先ず自分を、そして相手も。

それって幸せですか。
側に居てくれたら幸せな家族ならね、家でゴロゴロ昼寝してても、幸せな筈だよ。