学友と卒業以来年賀状しかやり取りしてなくて数十年。
その人はいつも友人の中心にいた人でした。お金持ちで人が周りにいっぱいで、その人の寮の部屋は常に人が居て、みんなのたまり場でわたしもよくお邪魔させてもらってました。
その人は太陽みたいな人でした。ひまわりのような陽気さで、いつもみんなに囲まれていた。
その人と今年、何十年ぶりにメールでやり取りした際、アダルトチルドレン であることを告白されました。ずっと悩んでいて、今、人生の中年を迎え、子育て、親のこと、で隠せなくなっていました。
これはまた別の話。
前にクライアントさんに憧れのあの人がいる、自分に比べてずるい、と言うのでその憧れの人になってもらいました。
わたし: その人、幸せ?
クライアントさん: 苦しい…自分より辛い、そう、とても無理してる
そんなもんだよ、とわたしは言いました。
人にはその人なりの苦労から悩みが必ずあるものです。ない人はいません。そしてそれを他人には見せません。そう、他者からはわからない。または隠そうとするもの、じゃないですか。たまに自分は不幸だ可哀そうだ、そうアピールする人っているよ?それはね、悲劇のヒロインの演出(ヒーローでもよいですが)であって本当に辛かったり、どうしようもない時、って人には言えないか、隠すものです。人ってそう言うものでしょう?本当に悲しいこと、また自分がしてしまった後悔、人を何かを傷つけたこと、傷つけられたこと、深ければ深いほど、言えない筈です。
それにはいろんな理由があって、
・自分でやらなきゃいけない
・話しても仕方がない(どうせ変わらない)
・立場上、そんなことがある、そんな状態だと言えない(ママ友・職場・学校)
・恥ずかしい
・変な人だと思われる
・ダメだと思われる
とかね。
本当は悩みを信頼できる人できちんと聴いてくれる人に率直に話すことが出来たなら、そこからあなたの中の心の整理が始まるものなのだけれども。そこに至るまでの”どうしても、言えない”はすごいよね。でかいパワーだ。”恥ずかしい”という恥はアダルトチルドレンにはとても強いブロックを産む感情だ。それを晒すぐらいなら死んでもいい、というほどの。
それは分かってるから。
それに”恥ずかしい、変な人だと、ダメだと思われる”、これって仲間外れにされたくない、ってことだしね。でもさ、何かを隠そうとすると自分から仲間へ心の壁を作って自分で遠のいていってしまうことだから目的からしたら本末転倒なんだけれど。
その恥ずかしい、という理性では抑えきれない何か、これは心理療法で緩和していくしかない。ここを理性でそれでも抑え込む、それは大変よろしくない。
だからね、そういうのが人間関係の本当に難しいところなんだと思う。そうこうしているうちに自分の本心がなんなのかどんどんわからなくなっていくのです。
それとね、記憶って嘘でも植え付けられるものなの。
反復で何度も質問していくだけで、嘘の記憶なんてすぐにその人には本当になる。
心理実験でおこなわれたのは以下のようなことです。
被験者の幼少時代の写真を複数用意します。それを見ながらエピソードを語ってもらう、という流れなのですが、ポイントはその中の一枚は嘘の合成写真というところ。写真の顔の部分は本人と親を使用するのだけれども、場所は行ったことのない一枚も一緒に忍ばせて行います。
それらの写真を見せながらインタビュアーがこの時は何歳でいつなんですか?
どんなエピソードがあったんですか?とインタビューするわけです。
同じ質問を5日目ぐらいすると嘘の合成写真に対し、初日は「記憶にないなあ」と言っていた被験者が、「あ、そこでアイスクリームを買ってもらって食べたのがおいしかったです」とか言い出したりします。
なぜなら質問ってされてわからないと人間って不安になるから無理やり記憶を創り出して”わからない”をなくそうとするのです。
つまり捏造です。
また”分からない”に対して記憶があいまいなアダルトチルドレンは通常の状態の人より恐怖心が大きいです。なぜならこれは思い出に関してですけど、自分の感情の解釈や、記憶、に関して多くしてしまっている人が本心から遠ざかって生きている人、即ち生きづらい人=アダルトチルドレンなので、常に多くの”わからない”を背負って生きているからだと、わたしは感じています。
感情、というものはそのままなんです。生まれたまま、でも解釈や記憶は意識、の領域。感情は変えられませんし、思って感情が生まれたら昇華するまでそのままなんです、誰しも。
しかし解釈や記憶はいくらでも捏造できるし、変えられる。
セッションはこれを本来の歪みのない姿にしていき、感情を正しく理解する=味わい、感じる、という行為をしていくこと言えるでしょう。
そしてあらたが、つまりわたし自身が絶対に信じていること。
それは心からの笑いがその人本人の感情からの発露であったなら、
それが一番美しいし、その人にとっての生きている、という証である、と。
どんな名誉があろうが、どんな学歴があろうが、そんなことよりも、です。