世間から押し付けられたしがらみや常識から抜け出して、
まっさらな赤ちゃんのような感性を取り戻して、と言ってる
心理系、自己啓発系、スピ系ブロガーが多いです。
赤ちゃんは確かに素直です。
赤ちゃんは確かに何ものにも染まっていません。
泣きたい時に泣き、怒りたい時に、怒る。
それはすべてを他者に委ねているから、と同時に他者を認知できていない。
というより、他者と分離=自立していない、のです。
わたしはわたしだし、あなたも、わたし。
他者が存在しないから、他者からどう見られるか、という意識、外聞も恥もない。
故に、なんのしがらみもなく、泣くし、笑うし、怒るし、人前でおしっこもする。
目の前の庇護者はわたし自身だから。
つまりは究極の共依存の状態。
だから可愛くて世話したくなるように、そうしないと生きていけないから特殊な容姿をしている。
哺乳類の赤ちゃんたちの可愛らしい容姿は、すべてを他者に委ねても生きていけるように
愛らしく、思わず抱きしめて面倒みたくなるように周りが感じる為の特殊な外見を持っている。
どういうものか、動物行動学者コンラート=ローレンツが色々な生き物を調べて共通の特徴をあげています。
①体に対する頭の大きさの割合が大きい
②顔より頭蓋のほうが大きい(大きい額)
③目が大きく丸くて顔の中の低い位置にある
④鼻と口が小さく頬がふくらんでいる
⑤体がふっくらして手足が短くずんぐりしている
⑥動作がぎこちない
このようなものを総称してベビーシェマと言います。
日本ではゆるキャラや可愛いイラストなどはこうした要素を入れて作っていたりするでしょう?
でももうね、あなたは、わたしたちは大人、なんだよ。
もう赤ちゃんの魔法の容姿は持ってない。
そして他者を認知し、自立分離をし、自律して生きていく能力と力を自分で育てていくことが出来るし、しなくてはいけない大人なんです。
自分で考えて、動けて、歩ける頭と体を手に入れている。
だから今更赤ちゃんはこうだ、と言ってどうなるのか、と思う。
だいたい赤ちゃんのような自由な感性を取り戻して、というが赤ちゃんは自由なのか?
とわたしは言いたい。
相手に依存しないと生きていけない状態が自由だろうか。
他人を認知しないで一人泣くことで相手をコントロールする間接的な方法でしか
物事を進められない状態が自由なのだろうか。
泣きたい時に泣く、って赤ちゃんが泣くときは命の危険がある時で、自由気ままに我慢することがないから、ではないのに。
つまりは真の自由は自立して自律した人間しか得られない、ということだ。
例えば今我慢すべきか自分で決めて我慢していたならば、それは自分の自由意思に基づくのだから
それは自分からの行動で、それは自由の元にある。
我慢しないこと、が自由なのではない。
自ら行動しない、自ら考えない、ということが自由ではない、ということなのだ。
相手に依存している、マニュアル通りに何のそれに対して意見も思考をめぐらすこともなく自動的に行うこと、言われたことをそのまま鵜呑みにして何も考えない、ということが不自由な状態なのだ。
では最後にどうしたら自由になれるかステップ形式で書いてみようと思う。
具体的に書いた方がわかりやすいのでテーマは”職場”、としてみる。
①わたしにとっての大切な物を3つ挙げる。そしてそれに優先順位をつけて並べる。
→例:A「職務内容・給与・やりがい」B「プライベートな時間の確保・通勤時間・街の雰囲気」
②今の状態、人間関係、環境、持っているリソースを全て、受け入れる。
→受け入れる、とはそのまま我慢する、ということではなく、どういう状態であるか客観視する、ということだ。まっさらな目と心で。
③ ①で挙げたわたしにとって大切な物が②現状にどれぐらい達成できているか数値化する。
④ その数値により、何を改善、提案、働きかけが出来るかを考える。それが不可能、またはあまりに未達成な場合は転職をする準備を始める。
これは学校であろうが、家庭であろうが、友人関係であろうが基本は同じ事となる。
この行動を起こせるからこそ、あなたは自由に、自らの心と意識に素直になれるのである。
赤ちゃんのように好き放題我慢しないで泣いたり笑ったりしたら、それは単なる癇癪を起しているだけである。癇癪は幼児または赤ちゃん返りをして天に還る前のお年寄りだけが不自由だからこそすることを赦されている特権である。
あなたはしてはいけないのだ。
なぜならあなたは、あなた自ら自由を産みだすことが出来るからだ。