と言うことで、本の話題を
〇〇したら人生上手く行く
たった3つの〇〇の法則、
心理学的エッセイや、How to本
お母さんと娘の関係の悩み
的な本を読むぐらいなら、
”赤毛のアン”が良いです。
またはアルプスの少女ハイジや、
アンネの日記。
なぜなら、悩みを解消したいとして読む
そうした心理系や対処的なHow to本は
間違った自己診断に陥る危険性、
またHow to本によっては対処法が書いてありますが、やってみようとしても氣持ちがついていかずに結局自分を責めたり、
結果が出なくて自嘲したり。
それにやはり本当に悩んでいるなら、やはり一人本を読んで、だけは難しいです。
(困ったことに最近の編集者や出版社は出版不況の為、トンでも本でも売れたらいいって出したり、そもそもHow to本は売れますからね…)
また何よりそうした本では悲しい事例、
悩みなどに触れる機会が多くすることで、
こんな状態の自分、そうなった要因、など悩みことを繰り返し自分に強化インプットしてしまうことすらあるからです。
そうしたらどんな人だって、
更に恨みや被害者意識が強くなってしまったり、ネガティブに意識を向け過ぎてしまったり。(今のコロナ報道の様に)
もちろん、過去や苦しさを忘れて、と言っているのではありません。それときちんと向かい合い、折り合いをつけ、昇華すること、これは本当に大切なこと。
しかしそれに囚われるような環境に身を置き続けないで、という事。
つまりぐるぐると24時間365日、そちらばかりに意識を向け囚われた状態では、
あなたは苦しくないのか、ということです。過去に悲しい思いをし、今、またその影に覆われた時間を過ごすことが、あなた自身の為だろうか。
しあわせがあっても、認知しなければ
”ない”になるのだから。
囚われた時間を増やすより、過去を無視せず、しかし”ある”かもしれない幸せにも意識を向けようよ、と。
あなたの周りも季節は廻るのだから。
今年のジンチョウゲの香りを味わいましたか?わたしは、あの匂いを感じるととても満たされた感覚を味わいます。
もし可憐な小さな花に氣がつくことが出来たなら、どん底にあろうが花は平等に人に何かを与えてくれる。
今は梔子が良い匂いを。
その前はテイカカズラもありました、わたしの好きな花です。
紫陽花も…そろそろ終わりですね。
季節も生命も廻る。
それは嬉しく、儚く、哀しく、美しい。
そうしたことに目を向けて味わう、
これは幸せの種の一つだと思うのです。
これも人生の豊かさと彩りの一つ。
いや、生きていることの証。
しあわせの点、とも言えます。
その点を何個集められたか、
一定集めたらそれは線になり、
いつかは図形になるでしょう。
だから苦しい、
悩んでいるあなただからこそ、
そこにばかり留まらず、
希望や勇氣を感じる、与えてくれる本に触れて欲しい、と思うのです。
さて話を元に戻しましょう。
とても天真爛漫な人柄です。
自分があるから人の評価より、
自分の心が響くものにとても素直です。
周りがなんと言おうと、
自分が直接見た事、聞いたこと、
それを信じる強さがある。
そこから生まれた朗らかさと明るさが、
人生を哀しみで埋めていた人を癒し、
生きる歓びと感謝の念を取り戻していく過程はあなたが、いつか辿る道かもしれないし、手本になるかもしれません。
天涯孤独で風変わり、な子であり、
更に赤毛。残念ながら未だに赤毛であることはアチラの文化圏では蔑視の対象になります(なんでですがね…)
彼女は、みなしご、おしゃべりと赤毛とハンディキャップを沢山持っています。
しかし彼女はひたむきさ、それと、小さな小さな喜びを発見出来る感受性と豊かな想像力、そしてそれを心から受け取れる強さ、を持っている(それを作者は強調したくて赤毛にしたのかと思われます)
経済的な面から見たら、
役に立たないどころか学費から世話から金食い虫ですらある子、が、
きっちりしているけれど対面ばかりに氣を使い、なかなか人に心を開けなかったつんけんした女性だったマリラから柔らかさと優しさを引き出し、
孤独だった二人の男女に人を愛する悦びを与える話だからです。
脳科学者の茂木さんは、その愛の循環の中で、アンが自分自身を自己受容できるようになっていく成長物語だと表現しています。
好奇心旺盛な、そして様々なことを鋭く見抜く観察眼と文章によって表現する天賦の才を持った少女が揺れ動く思春期に中で、そして極限の状況で綴った魂の書、と言えるでしょう。
一言、圧巻です。
(この日記が存在出来たのはアンネ一家を献身的に支えた一人の氣概あるミープ・ヒースのとっさの行動から、です。この頃ユダヤ人の髪の毛すら没収したナチスは隠れ家のものすべてを没収したのですが、その警察が入る一瞬の隙を狙い、床にちらばったアンネの日記と紙とアンネの髪のケープを持ち去ったのが彼女です。
こういう時の人の勘、こそサードアイが開いた状態なんですが…まあいいや)
共通して持っているのは
(アンネ以外は実在ではありませんが)
自分の心に対してとても素直である、ということ、そしてそれをきちんと表現している、ということです。
そして感じる力を持っていた、ということ。
(アンネは特殊環境の閉鎖された極度状態なので、実際の人と人のコミニケーション上ではその表現力の豊かさを全面には出していないかわりに日記内で爆発させた訳です。)
孤独だ、と感じていますが、
一つの要因として実は自分から自分の氣持ちをきちんと伝えていない行動パターンを取りがちです。そうしてしまう要因はあるのですが、
しかしその行動は伝えていないからこそ誤解を自他共に生みがちです。
だから自らを表現することは大切で、
この3人はそれが上手だから手本にするには最適です。(追加したら、失敗をめげない、もある)
嬉しい時は本当に小さな小さなことでも大喜びします。
(ハイジはその感じる心をフランクフルトで押し込め亡くしていくことで病になるのではありますが)
これが、素直、です。
勿論、成長と共に、人前でそのまま、
ではなく、抑えた表現で、形をかえて、
または日記の中で、とTPO※は身に着けていきますが
(※それは大人のたしなみ、ですから必要です)
自分自身の心を感じる感性を失ってはいない。
ほんのひと時だけど永遠の様な煌めきが文章に息づいている。
時代の波によって失われた天才が、せめて
それを全身で味わっていたこと、本当に良かった、と思います。
出来れば生き抜いて、それを再びお日様の下で味わって欲しかった、けれど。
陽の光を味わえる。生きている。
そう、”ある”はここにも、ある、と読んでいて思えるのではないでしょうか。
一番有名な松岡訳では重要な訳が省かれている為、原書で読める方は原書で。(高畑監督のアニメの赤毛のアンは省かれてない訳に忠実なので、アニメでも良いです。大人が観るとより深く感じられる良い作品です。長いですが・・・)
文春文庫の松本訳なら完全訳です。(朝ドラにもなった有名元祖の松岡訳は、ラストでのツンデレのマリラがアンへの想いを
アンへ伝えるとても重要な素敵な場面がカットされているのです)
マシューのせりふ回しは松岡訳かなあ、とも思いますが、訳者を変えて味わうのも楽しい。
「そうさな、(マシューのそうさな、は本当に優しい)
でもわしは一ダースの男の子よりも、
アンのほうがいいよ。」
マシューはアンの手をとり、優しく撫でた。
「いいかい、一ダースの男の子よりもだよ。
そうだよ、エイヴリー奨学金をとったのは、男の子じゃなかっただろう。女の子だよ…わしの自慢の娘だ、わしの自慢の娘だよ。」
男性としての強さがある自分を発見し、
誰かを愛する歓びを知ること、実行することで自分は存在する価値がある、と自分を肯定出来た(自分で自分をこの世に産み出せた)アンはかえげない我が子であり恩人だからです。
マシューの心を開き、素直な心を表現することで、人の悦びとはなんなのか、どう言うものか、それをマシューに教えてあげた。それはマシューの勇氣を喚起したから、マシューはアンを愛し、アンはマシューから守られて自信を取り戻していきました。
立派な愛をアンに捧げてしまう。
苦手な洋服も作りに行ってしまう。
中身もイケメンのギルバートもアンに惚れてしまう訳です。
(アンネの日記もアンネのお父様が亡くなり、世界記憶遺産となった為、全文の新版が出ています)
互いに行う中で、各個人個人が互いを思いやり、自らの力を発揮すること。
それが自分を生きることです。
ひたむきってどんな姿なのか、
生きる歓びと自分にとっての本当の幸せとは何を基準に求めていくのが良いのか、
アンが、アンネが、ハイジが教えてくれます。
もし娘さんがいるなら是非プレゼントしてあげてください。
その状態、それこそが安心、
だから、です。
初めて人は、
ではわたしも他の人を愛そう、
そう自主的になる※。
心屋さん系は、あなたは何もしないでいいのだ、
とか、ただ居るだけでいいと、
存在給とか表現していますが、
違いますからね。
生きている限り、
今の自分を正面から見据え
どうしたらより良く自分らしく
能力を発揮出来るか、を自ら考え
実践していくこと、ですから)
居場所がある、これは本当に大切です。
父は女であるわたしは興味なく、男がただただ欲しかった。
女性としての象徴のような、アンネ。
性に正直な、アンネ。
きもちわるい、生々しい、アンネ。
こ生意氣な、アンネ。
どうしたら誰にも知られずに生理が終わるのか、どうしたらいいのか。
その前にどうやって誰にも見つからず洗面台までシーツを持っていけるのか。
血痕だけでなく自分自身ごと消えてしまえたら。毎回そうした自分の性や生を押し殺して生きてきた、その時の わたしには性を正面から受け止めていたアンネは理解出来なかったのです。
が、そんな触れ方でもいいと思う。
この前たまたまアンネの日記を新たに触れる機会に、わたしは今更ながらいたく感動したから、です。
アンネ、という少女その存在に。
性に対しても真摯に、自分というもの、
人、社会に対し、好奇心を持って直向に生きた彼女に。
また、アンの成長していく姿に。
ハイジの無邪氣さに。
心からアンネやハイジやアンネ素直さに、素晴らしいな、と
尊敬の念を持つことが出来ました。
またアンネもアンもそれはそれは父親から愛されていたから、それを切望していた当時のわたしには耐えられなかったのだなあ、と思います。
(母から虐待されていたからこそ、父ぐらいは わたしを愛してくれている、と信じたかった、と。実際は違いましたが。
これも虐待よくあるある、ですな)
娘に対し、生理用品の提供という物質だけでなく男性の選び方、選ばれ方、身体の構造、過ごし方、を教えられる自分に。
それは昔、奪われた女性性を取り戻したからだと感じています。
これが心理療法の効果なのではないでしょうか。
読んだ人間のその時々によってまた違う発見があり、普遍の輝きがあります。
名作は同じ場所で待っていてくれる、
見守ってくれる大樹のようなものだと思います。
いつでも戻っておいで、と。
今の自分はどうその作品から学べるのか、
なにを受け取るのか、そうした視点からも何度も触れてみることをお勧めします。
