もしかしたら
自分や周りを赦せるきっかけに、
なるかもしれないね。
赦せなくても、
そうだったのか、
そう思えればあきらめることは
可能かもしれない。
あきらめる、とは
物事を あきらかにして手放すこと、
だから。
そしたら過去から解放される。
そうしたら過去の重荷をおろせる。
おろしたら余裕が生まれて
新しい自分にチャレンジできるでしょう?それが、わたし達に提供出来ること。
しかし、今の世の中は本当に窮屈だ。
息苦しい。
キレイ
清潔
美しい
差別なく
清く正しく美しく
それも極めたら、
単なる窮屈でしかないのに。
子どもは土と共に転げ回り、
いっぱいの物、氣になるものを触りまくり、五感で認知していかなければ、その子の世界は広がらないよ。
ばっちいって何?
土は汚くない。
生きた土は人間に悪い菌もいるが、良い菌もいる混合した世界で、調和がとれた状態だ、良い菌だけがいる清浄な地、ではない。
清潔に保つ、と除菌は違う。
わたしは琵琶湖周辺の上水下水の考え方は美しいと思う。最初の水は米を炊く水として、研いだ水や次の水で野菜を洗い、その次は洗濯やお風呂として、水を使っていく。これは清潔だと思う。
布団を晴れた日に日たな干しをする、
ひなた水(ひなたにタライで日向干しした水)で洗う、
家に上がる際、足を水で清める、
これは清潔に保つ。
場を場で使い分ける、と言うことだ。
排除じゃない。
あるべき物があるべき場所へ。
それぞれの存在を認め、
その場を尊重すると言うことだ。
が、除菌はどうだ。
排除は美しくない、とわたしは感じる。
モノは、その場では良くなくても、他では役に立つ可能性があるからだ。
コロナウィルスを排除する
コロナ患者を排除する
県を跨いできた人をコロナを媒介する人だと排除する
国外から来た人を排除する
肌の違う人を排除する
価値観の違う人を排除する
間違いを犯した人を排除する
そして、わたしがわたしを排除する
排除を習慣にしないで。
排除は差別へ、偏見に繋がる。
違いは、すべてにある。
しかし違いがあるだけ、なのだから。
これからを生きていくのは
だから清潔に保つ、にしていかないか。
あなたは、あなた。
わたしは、わたし。
例え生き方が違えど、価値観が違えど、
バックグラウンドの国が違えど、
ただ、違うだけなのだ。
場が同じなら、同じ場に。
違うなら、違う地に。
そこで生きて行こう。
あるがまま、あるべき場所で、
生きて行こう。
互いに敬意を払いながら。
最近のクライアントさんと感じた言葉
天水一碧の様に。
空も海も全く違うけれど、
一時のアオが溶け合う様に、
きっと通じ合う瞬間はあるのだから。

