古来、日本人は人材の適材適所を
見抜く人々が”頭”となって尊敬されていました。
大工の棟梁の仕事は建てるその土地の風、
湿氣、陽当たり全てを読み取り、
木材もズレが出てはいけない柱には、素直な木を。
反対に揺れが欲しい部分には、柔軟な木を。
北の方角には、木目の詰まった強い木を。
家具で味を出させたい物には、節だらけで個性的な味わいを出せる木を。
木の特徴を見抜き、配置、指示出来る人物がなりました。そもそもこれこそが、適材適所の言葉の成り立ちです。
材料や土地や対象のモノ
全ての個性を観察し、知り、理解し
それぞれの良さを発揮出来る働きを見出し
それぞれに活きる意味を持たせる。
木の声を聴ける棟梁が人間の本質を
見抜けない筈がありません。
そうした棟梁たちが新入りへと
技を教える方法がマニュアルや文章での伝承でなく、型などで身体へ直接覚えこませることをしてきたのか。
それは言葉は嘘をつけるので、
利己意識(エゴ)で内容を歪ませないこと、その叡智を丸ごと正確に後世に伝える為の方法だったから。
習字の字体を先ずは師匠の字を真似る、
唄なら息継ぎすら、真似る、
踊りも型から入る、
しかしそれは単なる猿真似ではないのです。
民藝の職人も似たようなことを言います。
焼き物なら、土の声を聴き、形にする。
自分(エゴ)は入れたら作品は小さくなる。
知識ではなく、その物が黙って語りかける言葉に耳を傾け、
日常で使って(=働きを持たせる)こそ、物は生きる。
使い込めば使い込むほど更なる味わいが出る。
そうした物は経年変化に耐えて、より美しくなります。使い手の愛情が積もるからかもしれません。
それを総称して、美、と日本人は表しました。礼儀作法なども「身体に無理なく、かつ美しく相手を慮ることを含め合理的に動かせて安全であること」
であって堅苦しいもの、でも縛られるものでもありません。
礼儀とは本来守るもの。しかし今は縛られる物だと認知している氣がします。
しかし終身雇用制の崩壊後、
企業、社会では
収入、営業獲得件数、口コミ数、合理化率何パーセント
目標達成率何パーセント、売上、等、
数値化出来るもの=数字データ=客観的平等的データを元に評価され管理職になる。
一見正しそうに見えて、
それらの判断基準は正しいでしょうか。
ビックデータを神として信望した結果、今ほとんどのマーケティングや物流倉庫はそれを基盤として動いています。
勿論、良い面もあります。
主力商品外(売れ筋外、季節外、規格外)は瞬時にバーコードから読み取られ、生産中止、流通中止、在庫なし。
無駄なし、手間なし、コスト減。
でもその消されたカオスの中に、
無駄な部分に、宝はなかったでしょうか。
新しい何かの芽生えがなかったといえるのでしょうか。見落した大切なものはなかったでしょうか。
そこでは実力を発揮できなかったかもしれないけれど他ではスターになれる資質がある人の才能を棄ててしまってはいないでしょうか。
わたしはここ数年、お店の数はあれど、
運営会社も違うのに、どこの駅に降りたっても、色々な国に行っても、似たようなラインナップ、似たような味、似たような風景ばかりでうんざりしています。
スマホがあるようになってからは
海外に行けば勝手に現地時間に変わり
ホテルではWi-Fiが飛び交い、
異国情緒も、旅特有の孤独感、疎外感もなく ほぼいつもの日常を持っていくことが出来ます。
便利ですが、便利ですよ、でも。
わたしが大学時代に旅をした頃の、
外国に降り立った時のパスポートと地球の歩き方の端切れだけが唯一の情報で英語も通じない町の身振り手振りの右往左往をしたたった一人感
その時に言葉もわからず笑顔暖かく、
しかし情報を間違って解釈してくれたスペインのおばちゃん、おじちゃんが
10人ぐらいでワイワイ相談してる間に飛行機を乗り遅れたスペインの田舎町
日本語をしばらく聞いてなくて、
そんな時に海外在中の商社マンの一家の車で空港から市街地まで送ってもらった時に久しぶりに話した日本語が身体に染み入ったドイツ
手紙しか伝達方法なく、アメリカで歩いていたら水鉄砲に撃たれ、それを友達に書いたら銃と勘違いし帰国後一か月以上タイムラグを笑いあえた日
お米が食べれなくて久しぶりにみつけた日本米を鍋で炊いて食べたお茶漬けの味がご馳走だと涙を流し、ついでに日本語が懐かしくて、そのお茶漬けの成分表まで
何度も読み直したりした日
くだらなくも、
そういったことを味わうことは難しい。
また、そうした社会に影響され、教育もそういった方向へ行ってはいないでしょうか。
”良い子”、”大人しい子”、
”大人が理想とする子”、
清く美しく、大人の理解の範疇内での言動が評価される。
それ以外の規格外は、否定される。
そこを教育で強化すること、
それは未来を担う子ども達にとって望ましことでしょうか。
子どもも、青年も、大人も、”わたし”というものの良さを伸ばしてくれる指導者、活かせる場所、認めてくれる仲間がいて初めて人と人の間に生きていることになりませんか。人は社会で認められて人間となるのです。
そしてそれは巡り巡って、
自分自身を受け入れ、他人を受け入れる
出来る土壌となっていくのではないでしょうか。
給料が高いよりも、名が知れた企業よりも、そういった組織や会社で働きたいものです。
最近、わたしや仲間は新しい時代の兆候を感じています。
新しい経営者に、
新しい町長に、
新しい事業を立ち上げた人、
昔からコツコツとしてきた企業に、
サードアイが開いた人がちらちら
出てくるのをテレビなどで確認しています。
あきらめることなく、
烏合されされることなく
探すこと、求めること、です。
ポイントは、
あなたの意識を喜び、親切、
優しさ、ほっこりすること、
そちらに向けることです。
