生きる、そして命について

生きづらい世の中を造ることに加担しないで

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誰かを正義の剣で成敗すればスッキリするでしょう。
でも、その諸刃の剣は巡り巡って自分にも来るのです。
大人になれば世の中割り切れないグレーな部分や、悪や善の混在したものが人間だと
分かってくる。それを受け入れた時、人は優しくなる、そして赦すことが出来るようになる。
しかし断罪してしまったら、悪は赦されない世界になる。悪は許すことはしてはいけないけれど、
赦すことのチャンスは残さなくては、過ちのない人しか生きれなくなってしまう。
過去のどこかに記事を書きました。
許すとは許可、のことです。これから行うことをしていいですか?と問われたことを、いいよ、と許可する、という意味です。
赦す、とは過去にしたこと、それを赦す、ということです。
ある意味カトリックの告白と同じです。

あなたは過ちを犯したことがないですか?
誰かを傷つけたことはないのでしょうか。
悪い、と言われたことをしたことが一度たりともないでしょうか。
嘘をついてしまったこと、も、全くないのでしょうか。

ええ、ないかもしれないですね。そういう人もいらしゃるでしょう。
ただ、わたしはあります。後悔すること、あの人に言えばよかったこと、やんちゃしたこと、
ありますよ。幼すぎてわからなかった、配慮することが出来なかった、恥をかきたくなかった、勇気がなかった、そんなことで。そして気づいてないでしたこと、分かってないこともあるでしょう。

何か事件や事柄に対して意見、を言えば、
罪人に加担するのか、援護するのか、と、感想や意見を述べることすら晒して断罪したら
ますます正義の味方になったようで一瞬、爽快感を感じるのかもしれません。
しかしそれは自分なりの想いや意見を述べること、の不自由さ、になるのです。
このAという事件では断罪する側だったとして、もしかしたらBと言う事案では起こした人が知り合いで、または味方したくなる人で、ということもないとは言えないです。そうじゃなくても違う意見を持つこともきっとあるでしょう。
いや違う意見を持たなかったとしても、それを言うこと、表現することを、叩かれる、炎上する、と表現することをやめよう、としたり消極的になる、という世の中を、あなたは望みますか?
ということです。
もう若い人は知らないでしょうが、昔ドイツは西と東に分断されていたのです。
東ドイツは社会主義国で、秘密警察に目を付けられたら生きていけなかった。現北朝鮮のような国でした。でもその時に市民を密告したのは、秘密警察と言うよりも同じ市民だったのです。市民が市民を見張るようにしたら、一番簡単に経費もかけず効率よく、かつ一番端々にまでスパイを存在させて言論統制が行えるシステムが出来上がる、だから、それを構築した。
ネットで自主的にする必要がどこがあるのでしょう。
それをやめましょうよ、本当に。
スマホを見て、流れてきた記事や噂に、そーそー、とただクリックやリツイートしながら断罪する、それって本当に必要だろうか。

そんなことするなら、米を研ごう
そんなことするなら、目の前の人と目を見て挨拶をしよう
そんなことするなら、歩くときに外の匂いを感じよう
空を見上げよう、誰かがあなたを見つめる目線に気が付こう、
今のあなた、の、現実を、生きよう。

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