日本の伝統的な家は仕切りが、障子、
つい立て、など目印でしかありません。
それは空間すらも相手を慮る、
氣使いの文化だから、です。
ですから昔の日本家屋は障子を開けたらワンルームの様な空間を複数で使用する場合は独特のルールがありました。
それは西洋の家の様に、
壁で個々人の部屋を作る、
という手法ではなく、
時間で区切る、という、
時で個人の時間を保つやり方でした。
戦後の混乱
(戦争は単に命などを奪うだけでなく
文化、風土を奪うことでもあります)
と政策、また様々なことで失われてしまいましたが、
民俗学者の記録の中に残っています。
昔の農家の一番良い場所、
それは囲炉裏端でした。
そこを巡って、
大抵が三世代が同居した中で
そのベストポジションを、
嫁、姑、祖母、の三世代の女性たちが
それぞれのタイムスケジュールを上手くずらし、そこを平等にそれぞれが誰に氣がねすることなく使うことをしていたのです。
時間になると声を掛け合うこともなく、
そっと番が来た人に譲っていく、
時間リレーの様子は他者のことを慮る日本的なスマートさを感じます。
だいたい現代では、
家は固定するもので、
その場に居座り、春夏秋冬、
どんな氣候になろうが
電氣などを大量消費し環境を強引に変えて
快適に過ごすことが行われていますが
昔は”夏の家”、”冬の家”、
”女の家”、”青年の家”、など
季節や所属、年齢などで住まいが
フレキシブルに変わることの方が多かったもの…
と、話が民族学にそれそうなので元に戻します。
ということで、
巣ごもり自粛要請が出ている方々へ
このアイディアを取り入れて欲しいと思っています。
というのも同じ空間に
ずっと同じメンバーで居続けること、
これは仲が良いか、悪いかと言う人間関係を除外したとしてもストレスです。
(仲が悪ければ勿論更に嫌でしょうが、
それじゃなくても、という事)
会議などで空間が煮詰まる、
なんか家で呑み会していたらいつのまにか酸素薄いー!!
そんな状況は誰しも体験があると思います。
これは人と会うと疲れる、
と言うのにも通じることで、
わたしは人付き合いが苦手だから、
わたしはコミニケーション能力が足りない、
わたしは人嫌い、
などだけが原因ではなく、
実はタイトルにある、
パーソナルスペースのリズムが乱れたから、(乱されたから)
ということがあります。
(※心に傷がある人、アダルトチルドレンに該当する方は
更に他者との境界線を適切に引く、緩める、が苦手な為
よりそれを感じやすいということもあるかと思います)
それぞれの人によって大きさは違いますが
パーソナルスペースというものが身体を超えて存在しており、そこはエネルギーだけの状態なので、他者と影響しやすい。
ここを自分のリズムというか、
波長に戻すには、
自分のパーソナルスペースと
他者のパーソナルスペースと距離を保ち、
しばらく時間を過ごして、
自分の空間を整える
ということが必要です。
主婦の方なら経験があるかと思います。
夫は会社、子どもは学校、
家族が嫌いなわけじゃないけれど、
それを見送った月曜の朝、
ほっとする自分、という、あれです。
これは週末に家族が一同に存在して、
乱れた家(家に(リビングに)一番同調してるのは主婦の方)が、
誰も居なくなって
自分の空間が落ち着くから、ほっとする。
誰しもがこの時間が必要です。
(ただし時間の長さ、
距離感は個人によりますが)
ですから、
いつも以上に家族の在宅が長い場合、
知らず知らずに全員が、
なんらかの落ち着く時間を求めています。
パーソナルスペースの量子エネルギーを沈静化させたい、落ち着かせたい
というイメージを持っていただけると良いかもしれません。
ですから、
それぞれがスケジュールを出し合い、
この時間はその人が家を独りじめ出来る時間、をそれぞれに確保してあげましょう。
その他の人は散歩に個別に出かけます。
それは外でもなるべく一人、になることで
氣がねない時間の貯蓄をした方がいいから、です。
小さいお子さんが居る場合は、
家族みんなで散歩、ではなく、
子どもと父、子どもと母、
という形で在宅になる人は
一人になりましょう。
掃除など誰も居ないからこの瞬間に!!
などと思いがちですが、
ここはぐっと(?)我慢して
だらーとしましょう。
スマホとかテレビとかもなるべくならしちゃいけません。
ぼんやり、ぼーと横になる、
下品な言い方をすれば、
ついおならがぷーっと出ても氣にならない、そんな状態で過ごすことです。
(悩んでる人は腸の動きが上手くいかないので常に満腹感があったり下痢があったりする人もいます)

人によって違いますが、
時間は出来たら一人最低30分程度はは作ってあげましょう。
その為に他の家族人員は30分外ですが、
そもそもそれぐらい歩かないこと自体、
身体によくないので最低限一日それぐらいのウォーキングしないといけませんしね。
いやー、うちの子は家で
ずっとゲームorスマホだったら尚更、
親としてキチンとしましょう。
親の責任においてルールを守るように
子どもを指導し、守らないなら
きちんと叱りましょう。
言っても聞かないんだモーン、これでは
某日本の総理と変わりません。
日本の慮る文化は素晴らしい一面もありますが、リーダーシップと言う側面では欠ける部分があります。
今まさに政治家に対して(311の時も)それを目のあたりにしてはいないでしょうか。
これが日本独自のアダルトチルドレンを促進している、
友だち親子、叱れない親※
(権限もないけど責任も取らない)
なのだから。
※虐待する親とは、
叱っているのではなく、
怒っているだけです。
たとえ口先で「子どもの為だった」
と繕っても、
実は見つめているのは自分自身のみ、
自分自身の中にある暴れて仕方ない怒りを
子どもに八つ当たりしている状態です。
”叱る”、とは、
その子どもが嫌がることだとしても
その子どもが今それをやることが後々の為になる、
と、判断したことを伝えること、です。
または親の責任において作ったルールに従わせること、です。
暴力を使うことでも暴言を吐くことでもありません。
また、それを言うことで子どもから嫌われても構わないという覚悟の元、
それをした結果も請け負うことです。
すべての責任はとるから家に居ろ、という
欧米政府のような父親的な政治指導者の姿です。
ただただ、
家族の命を救いましょう、
前向きに迅速に善処していく、
という様な情ばかりに訴え、
具体的に政府として何を保証するか
また、かかった場合の医療体制、
コロナの抗体に関して先の具体的施作の見えにくい、
そして、なんとなく透けて見える
わたしは責任をとりたくない姿、
というのが叱れない親の在り方です。
これでは尊敬も信頼も出来ないでしょう?
(まあ、欧米型の父親的リーダーシップが全て良し、ではありませんが、バランスとして日本は政府も家庭も父性が足りない)
”親しみのある空間で一人になる”、
こうしたことを取り入れることで、
自分と自分のパーソナルスペースが落ち着きます。
それが出来て、
人は人に対して余裕を持って接することが出来る。
せっかく家族は一緒に過ごすもの、と
24時間一緒に同じことをしたり、
同じ空間を共有することが仲良しではなりません。
時間は短くとも、
心を通わせることが出来たか、
またそれがより深かったか、
ここが家族を保つ努力であり意味でしょう。
ただだらだらと同じ場に居ながら、
目も合わせずにそれぞれがスマホをしたり
違うテレビ番組を観続けることが仲良しの姿ではない。そう思われませんか?
身体だけ同じ場所にいても…ねぇ。
(レストランでカップルや家族が向かい合って皆スマホを見てる、あの風景、悲しすぎる…)
