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わたしがアメブロ を辞めた訳(そして”スマホ及びSNS社会の弊害”)

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わたしがアメブロ を辞めた理由、それはわたしが自分のホームページをSNSの形式としたくはなかったから、です。

アメブロ はブログと言うよりSNS形式であり記事の内容より、いいね、とフォロワーに価値があるように思います。

じっくりと文章を読むより短い文章と写真で続くで引っ張るスタイル。だから更新頻度も沢山しなきゃ目立たない。内容より騒ぐことや目立つこと、フォロワー、順位、そちらが主眼のようで。

(まあ、今の時代は文書を読むこと自体が敬遠されているから時代に逆らってるのは自分なんですが。しかしわたしは過去の遺物であってもその生き方には乗りたくないです)

始めたばかりの頃、まだアメブロ に対して能天気な印象を抱いていたわたしは心理系とは全く関係ないトップブロガーさん達の記事にコメントを書いたことがありました。難民問題や絵画の話などです。本当に個人的な意見で、そのブロガーさんにいいですね、というポジティブな意見を書いたのですが、コメントを削除されたことがあったのです。最初純粋に??だったのですが、後からそれはトップブロガーのコメント欄に書いたらアクセスを引っ張れる(自分のブログが沢山の人に目に留まるようになる)からコメントした、と勘違いされたと後から分かりました。そんなこと微塵も思ってなかったので本当にがっかりしたのを覚えています。自分の気持ちを宣伝、ととらえられたことに関して。意見に対して嫌だったからならともかく、そこまでしてアクセスにこだわるのがバカみたい、と感じました。本当にその絵画に感動したから、難民問題に関心があったからコメントしたのに。

だから次第にコメントもいいね、も辞めました。そして感じたんです。たまに意見を言いたい記事を目にしても言えない不自由さ、なんだ、これ、です。

更に頻繁に記事を更新するには自分の時間も不自由になります。

でもこれをしないと目立たないのでアメブロ はあの手この手で管理画面の中でせきたててきます。記事を書くたびにそれを目にするのが煩くて。

また料理などのトップブロガーの記事を読んでいたらアメブロ ってトップブロガーのパーティとか勉強会とかするんですよ。どうやってアクセス増やすか書き方とか教えたりして。で、感謝祭パーティみたいのトップブロガーさんは嬉しそうに参加して報告してました。有名ななになにさんに会えた!感激!とか言って。

あー、この人たちトップブロガーであることがステイタスなんだ…、嬉しいんだ。で、勉強会の後、その人の記事にはますますバナー広告が増えていく。

なんだ、これ…。

まあ、無料ってこう言うことなんだなーと。(検索も然りなんですけどね…)

あと記事全てがアメブロ に帰属してるのも嫌でした。

ここはわたしが好きな場所ではない。

そしてわたしが望み造りたい場所は、必要な人に必要な言葉を伝えたい場所。

迷った時、孤独な時、光が見えない時に、読んだら少しは救われる言葉が、いつでも、必要なだけ読める場所。

それは本のような存在。

常に流れて新着ばかりが注目を浴びる世界ではない。必要に応じて昔の記事、こんな記事もあったんだ、と繰り返し読み返せる場所。

それがアメブロを辞めた理由です。

メタの3Dカメラをボディワークの先生から体験させてもらった時になんとなく調べたんですがFacebookは2004年からなんですな・・・まだまだ歴史浅い。

わたしの青春時代の検索はもっと検索技術がいったんですよ。Googleなかったし。だからホームページもブックマークしとかないと二度と出逢えないものとかいっぱいあった。だからあの当時の販促手法はテレビは受け身のCM、パソコンのバナーは主体的なCMってカテゴリーでした。

あの当時の人が今50代以上になってお偉いさんになってあの感覚で子どもにパソコンを早期教育ってしてる訳ですわ。その当時はもっと扱う人が知識がないと使えないもので、数学が得意な人が率先してやるからパソコンを扱う人平均値的に頭が良いグループだったから。わたしの従弟なんか秋葉原で部品買って自分でパソコン組み立てて売ってたりしたよね。

そこからやっぱりiPhoneからスマホをというものを人類に浸透させたアップルがやったんだけど、もっとポップに一般の人が簡単に、一家に一台から個人一台という流れを鮮やかなビタミンカラーバリエーションを交えて売り込んでいったのね。これ

で、今のAIのおすすめや検索で、インターネットこそ、受け身(どころかおせっかい以上だよね)のメディアになった訳ですよ。

そうなったらもう、パソコンの早期教育で頭がよくなる(シアトル的な起業家を目指そう)ってのは話が違ってくる。徹底的に受け身の刺激が強い、そして中毒性と依存性の高いもの=スマホ、であって悪魔の箱って感じですよ。そんなの子どもに早期教育する必要性なんか”ない”と思います。この前小学校一年生の子どもが学校から強制されているタブレットを使っていてぞっとしました。

わたしたち大人は検索結果から、今までの経験で選択していますが(これは必要ない、必要ある、これは違うだろ、と)でもね、小学校一年の子どもは脳が違います。まだ発達段階にあるんです。

検索結果=正解、なんですよ。なんでー?って言いながら、大人より信じてしまっているんです。意識の奥底で。

箇条書きにSNSの依存を高める仕組み書きます。

①タイムライン機能

そしてSNSの走りのミクシィなどによるコミュニティ作りの為の

②ぺた機能(的な読んだよ、って相手に知らせる相互作用機能ね。いいね!然り、古いならミクシィとかの足跡然り)

③即時性=すぐ、を焦らせる既読機能

④その人の人間関係の数値化であるフォロワー数及び順位などの投稿したものへの他者からの反応の結果報告

⑤結果報告により煽られる承認欲求からのネタ探し

まあ今もSNSはどれを選んでもこの機能が一番強いのではなかろうか。しかしこれこそが習慣化&中毒&依存を産む仕組みです。

①タイムラインという流れていく、刻刻と変化する、ということはいっつも見てないと情報から置いてきぼりされてしまう。

から、定期的に見ないと(強迫的な)と。と言う状態から人を常に見たくなる(見ていないと追いつけない、見逃しちゃう)と言う切迫感を生み出しました。変化球はInstagramのストーリーね。投稿する側は24時間で消えちゃうからちょっと冒険的なことや毒を吐く(インスタちっくでなないかもですが)とか、出来ちゃうから投稿したくなる、そして見る側は一日一回は行かないと消えちゃうから、行くという習慣化を喚起できる訳です。

②&③またコミニケーション機能はお互い様でスタンプやいいね、の応酬。ここのミソは、スマホいつでも持ってんだから、すぐ出来るよね、すぐ対応するほど、=わたしを大切に想ってくれてる気持ち、という変換が産れます。お互いの相互作用より、このすぐ

がやっぱり習慣化させる訳です。メッセージとかも然りね。

わたしの生活リズムを乱してまですぐ、って本当は本末転倒なんだけどね。だってその人がしっかりした意識でしっかり相手のメッセージを読んで返信した方が誠実じゃないですか、本当は。

素早いを優先して片手間に返事するより。

むかーしむかしの、わたしの10代の頃は海外行ったら本当手紙のみですよ。1分2,000円だったか国際電話はバカ高いし、手紙は状況により1週間~2週間。だから手紙を郵便受けに見つけた時の感動や有難み、繰り返し読む手紙の重さは忘れないよね。それをさ、海外での本当の独りぼっちの自分に届いた時の感動って。

今の子はそれを味わうことが出来ない。本当に可哀そう。

孤独がいいの?って孤独は自ら選んだ環境だけど孤立、って言った方がいい。孤立しなければ人と手をつなごうとは思わない。だからそうした環境に置かれて体感することはとても、大切。初めて有難みを心から感じられるものだから。

④そして承認欲求(フォロワー数、見た人の反応(いいね!的な)ブログのアクセス数、順位も然り、これもリアルタイムで見れる。リアルタイムだから今、どうなってる??って何度も見たくなるように誘導される。アクセス数も一日ごとの更新より、リアルタイムだと、アップしたぞ、どうなってる?ってなるでしょ)

⑤今、楽しい!美味しい!すごい!とかより、これは映える?と言うネタ探しの方に心が行ってしまう、ということ。これ撮ってバズりたい、またはインスタあげたい、そちらに心が行ってしまって味わうことが出来ない、ということ。

いや、あらたさんも何かを感じたら記事にしません?そうですね、します。しかし、記事にするにはそれを感じ、熟考し、記事を書きながらまた客観的に思考する、と言う手順を踏みます。

しかし最近人気のSNSは写真や動画が主流です。そこに熟考と言う段階はありません。わわわ、撮った、撮ったぞというもの。(まあ、撮影を映えるように撮る、とかどういうハッシュタグにするか、という工夫はあるけれど、それは内容や本質を主眼として思考する、ということではないでしょ)わたしは仕事で料理や外観を写真で撮ることがありましたが、料理などは写真撮影を踏んだら美味しく食べれません。その料理と対峙したら、味わうか、撮影か両取りは難しいです。仕事で料理の写真を撮るのではない限り、味わうことがその食材となり命を落とした生き物への最低限の礼儀であり、それを作り、運び、料理し、彩ってもらったすべてへも返礼であると感じます。

そしてその命を頂くのだからこそ、わたしたちはより善く生きていかなくてはいけない責務を負うのだと。

人生をネタ探しで生きるのは楽しいことではありません。

あなたの人生はネタなのでしょうか?あなたの人生を実存させたいのなら、ネタではなく、それ自体に命を持たせましょう。

それをしないでネタにしていたら、当然、あなたはあなたを軽んじているのだから自分と乖離しやすくなります。

色々述べましたが、ネット環境が気軽にすぐ出来ること、それは便利でもあります。

しかしそれに使われてしまうのはどうでしょうか。

使っていきましょう。

使うとは、自制が効く、ブレーキとアクセルが自分の意志で動かせることです。

ですので、その発言においても、わたしは自分の生き方を表せるネット環境に引っ越しました。

①いつでも同じ場所にある

②競争しない

これは第一原則です。

先に書きましたが、書いている文章はとても拙いので及びませんが、わたしは本のような存在として在りたかった。流されるのではなく、新着の記事があるかないか、というより、いつでも読みにこれて、そしてその日にあったページを、また折に触れて読むごとに違う側面を感じられるように。

いつでもそこに、在る、というホームページに。

少しでもそうなれたらいい。

だいたいわたしの記事はその人の精神成長において読む深さが変わってくるように書いています。前に読んだから、ではなく、セッションを受けた後、そして受けて何か大きく変わったなあと感じた後、そんな時に読むと、ああそうだったのか、と新たな発見があるようになっています。

ですのでタイトルだけ見て、わたしには関係にない、とか、もう読んだ、ではなく、前に読んだけど今読むと違う、あれ、こうだったのか、そうなった時こそ成長の証なのだと目安にして頂けると幸いです。

また、今回このホームページを移行するにあたって、最初の開設から(未だになんで出来なかったかもわからんぐらい単純なことすらわたしは出来ませんで・・・ふ・・・)そうした技術的なことから、記事移行の膨大な作業、そして更にテーマ選びによってのどたばたにも辛抱強く付き合ってもらいました。

手伝ってくれたみつきさゆさんには本当に感謝しています。

ここに改めて心よりのお礼を申し上げます。

そしてわたしも、ささやかながら、さゆさんのホームページのバージョンアップに関してコンサルをさせて頂きましたので更に彼女の想いが伝わりやすくなっていると思います。(みつきさんは職場や家庭などで人間関係に悩んでる方、どうやって自分の気持ちを伝えたらいいのか、それぞれのシチュエーションで具体的にうまくいく方法をコーチングしたり、わたしってどんな人間?自分自身の取扱説明書を書きだしていくセミナーを開催しています。学校に行かない子どもとの接し方、職場のランチ問題など知りたい方は→こちら

これはわたしの個人的な想いですが、

今回のこと(みつきさんのホームページ改良およびこのホームページ開設)で互いのホームページがちょっと読んでくれるあなたにとって見やすくなっていたり、わかりやすくなっていたり、ほっとする様になっていたら、我々2人、ちまちまとやってきたかいがあった、というものです。

また、面倒を見てもらったのはわたしですが、それでもその過程において互いに良くなっていく、そうしたことこそ、”困難や問題や一部損失があるない”より本当の仕事というものなのだと、そしてこれからの時代の共に職場で在りたい姿=仲間なのではないか、とさゆさんに身をもって体感していただけたら、わたしは嬉しい。

わたしはあなたと言う仲間と仕事をしてとても楽しく充実した時間となりました。あなたにとってもそうだったら、それは本当によかったと感じます。

本当にありがとうございました。

さて、ここからまた新たに始めます。

正直ある人達から逃れたかったのもあるので、リンクも引っ越しも大っぴらにはしませんでした。ですからほとんどの人にとってはいきなり久しぶりに行ったら消えていた、という状態でしょう。

だからこの記事を読んでくださっているのは、あなた一人かもしれません。それでも、もし、何かあなたの心に何か響くことがあれば、そしてここであなたの辛さが少しでも和らいでくれる一文に出逢えたなら、こんなに嬉しいことはありません。

あなたが幸せでありますよう。

そしてあなたがあなたらしく、生きてくれたなら。

それがわたしの願いであり、この世で実現したい世界であります。

2022年3月吉日 レゾナント心理セラピスト あらた

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