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あの人ってズルい、と ひがんでしまう前に

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なにか最近、大学大学入学や資格を取得する人が前にも増している感覚がある。芸能人ならテレビとは違う顔があるのよ、見直した、的な。子役の子が偏差値高い大学合格的なのも含み。
結果、実はすごいじゃん、頑張ってる、となる図式。

わたしは資格を取ることも大学に行くことも素晴らしいと思う。
しかしながら本当に純粋に本人がしたい、なら、である。
社会不安への保険や見栄でないなら…(これは今社会や経済の先行き不安に雇用も安定していないからそうなるのはとても、分かる、けれど)

今の人たちを観察していると、社会的な保険としての動機が強い様な気がするのだ。
わたしは親の関係で希望の専門学校(映画作成)に行かれず、中学の頃の先生からの贔屓などで、ひねくれて高校受験で自暴自棄になり高校や大学受験もいい加減で自分の希望の学部でもない短大を卒業した。このままでは負け犬な自分が嫌だった。だから社会人になって働きながら自分の学びたい学部にまた一から大学に入学した。親に言うと自由になれないから自分で費用の払える通信の大学を選び、休学も挟みながら8年かけて卒業した。もう誰にも何も言われたくなかった。わたしがしたいことをしたかった。何が言いたいのかというと、学ぶことは何歳でも可能だし、働いた後でも可能だということだ。
本当に学びたいのなら。
ただ社会人として働いてからの大学の授業は経済などの基本科目などは「机上ではそうだが実際には…ちょっと机上の空論ではなかろうか」そう感じることがあったし、だから象牙の塔と大学を言うのだな、と感じることなどもあった。親戚が大学関係が複数いたので、わたしが幼少から観察してきたが、大学とは学問を探究する人で、それは確かに知性的に賢いけど、商売的やらコミニケーションやら他で聡いか、肉体的にしなやかで器用か、と言えば全く違う。そして今現在の生きている社会と机上の乖離は結構溝が深いぞ、と。つまりは勉強というものと実践ということは違うのだ。
故に社会を動かす能力や感動させる力、また物を創り出したり、仕組みを作り出す能力とは別であり、知的レベルが高い人が社会的な生産量が比例するわけではなく、人それぞれがそれぞれの才能を活かさねば世は回らんと痛感する場面を結構目撃した。
論文などをまとめる知性ももちろん素晴らしい、だが現場での地頭がいい、というのとはまた違うことであり、それは偏差値や学校名や分かりやすい知性だけが知性ではない、ということだ。

つまり大学が偉いわけではなく、それはそれ、あれはあれ、だと感じるのだ。
たいした学歴(偏差値)がないわたしが言うと説得力がないかもしれないが本当にそう思う。
大学は偉くはない。学問を探求するのに適した場所、という役割を持つにすぎない。教授であった伯父たちはわたしから見たら意味のわからない数式と理論の書を胸に抱き棺に入った。そして数式から俳句を愛で何から様々知っていた、または他の伯父は月何十万本に費やし鬼籍に入ったのちは教えた大学にすべての本を寄贈した。二人とも知識が豊富だから話していて楽しく色々学ばせてもらった。尊敬すべき知性の塊であった。それらに幼いころから触れていて身近に居たからこそ、思う。
だが、それは伯父たちの一つの才能であり、大学名や難しい資格などはわかりやすいブランディング力をもっているだけ、で、そうしたもので表せない能力や活躍でも世の中は成り立っているのだ。
運のいい奴は運を、手が器用な奴は手を動かせ、頭がいいやつは知恵を出せ。
そうした違った才能が集まるとそれは三人集まって文殊の知恵となる。

故にどこが卑屈になる必要があろうか。

もし卑屈になるとしたら、それは他者からの評価に基軸を置いているからだ。



つまり何が言いたいかというと、
向いてることをしたらそれが素晴らしいこと、それがそれぞれの才能。
偏差値や資格では決まらない、ということだ。
(資格や高い偏差値も素晴らしいし他も同等に素晴らしい)
しかしこの世の資格やなにかで表せない才能の方が多いだろう、と。

それぞれの道がある。

今まで暮らした犬たちを、想う。
わたしが子どもの頃から、両親が子どもの頃から暮らしていた犬たちを思い返しても
本当にそれぞれの個性がある。どの犬が優秀とかどの犬が素晴らしいとかではなく、どの犬もそれぞれで、それぞれが一番好きだった人間がいた。
そして他の優秀や素晴らしい才能だと記事になった偉業を成し遂げた犬?の話もきいた。
地球を半周回って船を乗り継いで飼い主の元へ帰ってきた犬、癌を発見して助けた犬、子どもを火事から救った犬…確かに優秀でびっくり、振り返ってうちの犬は…と家族で話せばそう言う流れにはなる。
でもやっぱりお前はお前だよ、となる。お前だから愛らしい、と。
それが純粋な愛情だと感じる。
犬にはそうできるけど、子どもや夫や妻や親、部下、上司、友達などはどうはいかない、というのだろうか。そうかもしれない。そこが人間関係の絆の鬱陶しい面だ。
そしてなぜなのか。
それは関係性に甘えへ期待がある、ということだ。
それを平たく言うと”条件付きの愛”だということだ。

でも、子どもにしっかりした会社に入って苦労させたくない、だって、幸せになって欲しいから。
だから期待したいし、前もって塾に入れて安心したいし後々苦労させたくないから。


しかし考えて欲しい。
本当にそうだろうか、子どもや夫や妻や…(以下略)も、そして自分自身もそうではいけないのか、ということだ。そしてそう、相手を想うこと、そして自分も想ってもらえること、それが幸せではないのか、ということだ。あの人は優秀だ、この人は努力してる、あの人はあんなことも出来る、そんな人もいるんだね、素晴らしいね、でもさ、あなたは、あなただよ。わたしにとって、大切な、なにが出来るとか、じゃなくて、それよりただ側に居て欲しい人なんだ、そう言われたくはないのか。そしてそう、言える相手がいること、それが本当の幸せではないのか、とわたしはあなたに問いたいのだ。
またこれを一言で言えば、これこそが”無条件の愛”ということだ。
そうした状況に居る人間が本当に働く場もなく、たった一人で孤独で、苦しんで生きているのだろうか、ということも加味して考えてみて欲しい。


それぞれがそれぞれに生きていく、認められていく、受け入れられていく世界、というものの実現とはどういうものか。本当の認め合う共生の世界とは、今の一部のマイノリティなどの要求を強制的に法律化して罰則とハラスメントハラスメントを増やしていくことではない。
今の状況は共生ではなく、強制であり、矯正の世の中である。

そう、大学や資格による個人のブランディング化もその矯正であるとも言えるのだ。
本当にあなたは望んだ学部や望んだ大学へ行ったのだろうか。
純粋無垢に、ああ、それを知ること、分かろうとすることがどんなに心が震えることか。
感動するものか、こんなにもこの学ぶべき対象をわたしは愛しているのか、そういう学問だろうか。
社会で役に立つ、就職に有利、なんとなく偏差値で狙えた学部、ではなかったか。
資格も本当に希望したものなのか。
安定した職業、潰しのきく資格、儲かりそうな方向、親が望んだ大学名、代々望まれた学部、ではなかったか。

負けた勝った、ではなく、
自分自身の出来ることを精一杯やり、
更にその後まだ続く道のりを後世には託す、という道が実はある。

そして、あの人はずるい、あの人はいいな、ではなく、
あの人って憧れだなあ、あの人のあそこは素敵だな、とただ尊敬すれば素直な心の状態になる、そんな道を実はある。
そう、本当の尊敬するということは負けじゃない。

もしどこかに妬ましく感じるのだとしたら、それは卑屈な自分がいるから、だ。
どうして卑屈になるのか、それは自分自身を条件付きの愛でみているからだ。

自他ともに素直にありのままを認める、受け入れる、力だ。
それこそが一番の幸せへの道だ。
偏差値でも金や名誉でも埋めきれない真の幸せへの道だ。
その人こそ、どんな状態でもどんな場所でも心の平穏と自分なりの楽しさを発見できる人だ。
それこそレジリエンス、勝ち負けでは得られない本当のわくわくした世界だ。

熊谷守一という画家がいた。
昭和天皇はその人の絵を見て、園児の絵ですか?と言った話が残っている。
人生後半の絵はほのぼのとした生き物たちの絵だからか。
その画家は5人中、3人の子どもが早世し、自ら身体を壊して後、30年ほど庭から一歩も出ず、その庭に生息する生き物と植物を描き続けた。庭に寝そべり蟻はどちらの足から歩き出すのだろう、芽吹きはいつか、やってくる野良猫のくつろぐ姿などを日なが一日中観察し続けた。
世界はすでに、望めばあなたの手の中にある、のだ。

どこに居ても、何があっても自分を鼓舞するものを自分で発見できる力、それこそがレジリエンス。
そうしていたら人を僻むことも自然と減る。
何故なら自分自身を自分で楽しませ愛せる方法を知っているからだ。
そんな人は相手を羨まない。自分にない才能を持っている人、自分より出来る人のおかげで社会が回り、自分を生かしてもらえていること、そして自分も逆に何かの役に立っていることを知っているからだ。だから人を、他者を尊敬し、自分の誇りを感じながらすべてに対してありがたい、と感謝をするだろう。


是非そちらの心を育てていって欲しい。

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