あらたのセッションに関して心理療法ってどういうもの?育みあえる仲間、家族作りの提案子どもを尊重する子育ての提案

受容する、とはどういうことか。またどうなったら受容出来ているのか

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わたしは受容を行動的言語で表したなら、何にあたるのだろうか、と。受容とは心の動きを表現していますよね、ですが、じゃあ具体的にしたら、と言う意味で受容とはなんなのか、ということです。

ボディテクニックを行っていた時に、ああ、と腑に落ちたことがあったのでここに記しておきます。

職人の手の成長具合というか。結局、そういった手の感触というか働き、が一流の職人さんはみな、出来ている、と。お茶を点てる、楽器を弾く、料理を作る、工芸品を産み出す、昔の内科医のお医者さんはお腹に手をあてて、触診していましたね。

そういった感覚をいかに研ぎ澄ませられるか、育てられるか。
触れ、感じる、そして、待つ。
これが肝心である、と。

その時、わたし達臨床家はその手を通して、あなたの身体を聴いてる。

わたしの手の成長と共に、からだ=身、が応えてくれること、教えてくれること、変化が変わって、よりダイナミックに、より深い場所と呼応するようになってきたとき、最初に、自分の手の触れる意図、が変わったのを感じました。

わたしが、でもなく
その人が、でもなく、主語がなくなったというのでしょうか。

下世話な言い方をすると、こうやったここを解せばよく出来るかもしれない

という、”わたし”

ここをこうされたい”クライエント”

も、なく

ただ、ある状態にいかに、そのままをただ受けとめていて一切の診断も判断も手放したと言う状態になった時、からだ=身は圧倒的な変容を勝手に始めたのです。
ああ、これが本当の寄り添う、という状況であり、受容が愛になる瞬間なのだ、と。
そしてそれは からだ が主体的に動き出した、ということなのだと。

何も足さない、何もひかない、ただ、今を知ろうとする、とはこのことだ、と。そうした時の解放された変容はダイナミックで深く、わたしはただその場で圧倒されるしかありませんでした。

その時に思い出したのは解剖学者の養老孟司さんが長年の研究の時間の中で、遺体の手を解剖中、触れた時、そのご遺体の手が、まるで自分の手の様に感じた、という一文です。そこに理由もなく、ただ、その人の手、ではなく、わが手も、その人の手もなく、同じように愛おしい、と。

これが共鳴であり、クロッシングであり、平たく言うと、存在をそのまま是か否もなく、そのまま、を受容したことです。その時、わたしの手はとても柔らかく、ただただ、その人のその部分の形状に沿っていた。押し付けるでなく、かと言って、吸いつくように万遍無く、その部分にただただ寄り添っていた。

ああ、寄り添うということはこういうことで、寄り添うことがよりその場でより完成度が高くなればそれは受容→愛へと精度が増していくのだ、という発見でもあったかもしれません

これが受容ということです。
カウンセリングで言う、”否定しないで聴く”という状態です。聴く、とは、言語による、クライアントさんが昨日体験した上司とのエピソードや親との葛藤のそれぞれのどうしてこうなった、というものを言語のみで聞くことではありません。

そうしたエピソードに対して、「そうだったんですね」と否定しないで聞くことではありません。それを否定しないで聴くというカウンセリングなのだと思って欲しくありません。それを全く理解していないんだな、とカウンセラー養成講座の後輩のブログ記事を読んでつくづく思いました。

その人は否定しないで聞くことが出来なかった(エピソードに対し、つい自分の意見を持ってしまった、ということでしょう)だからこのやり方に疑問を持ち、自分は心理学の大学院に行ったのだそうです。で色々と勉強して傾聴ってなんなの?適当でいいんじゃない?他にもやり方あるし、的な。

ああ…これが知識過多の人の陥る罠です。知識はただ色々と知っている、だけではなんの意味もありません。知識は自分で消化していること(=理解していること)そして、それぞれの知識が環になり連動して活性化した時に初めて活用出来るものです。この人は大学院ですがセミナージプシーややたらブログや本で色々な方法を試しては食い散らかす状態も同じようなものです。

つまり知識過多や情報過多で満足している人、それを追い求めている人は、高級なゴルフバックを買っているけれどゴルフの実践をしていない状態のようなもの。
それよりも(わたしはゴルフやったことないですが)棒切れでも探して来てパットやショットのイメージトレーニングをしながらそれを棒を振った感覚を繰り返す地道な練習がゴルフの上達法だ、と言いたいのです。

さて、話を元に戻しましょう。

聴く、とは触れ、観ること、です。
その対象がどうなっているか、何を思っているか、
その対象がなにか意志を自ら発するのか、示しているのか、

それを側で待つことです。
あなたがいたんだね、と、対象物を発見、そして発見したそれ自体を見て、触れて、そして、待つ。

これは昔の日本人の文化の中にあったもの。

手入れ=里山、自然との係り(昔)⇔ 管理(現在)

見守り=子どもや老人などの助けでが必要な対象者への係り(昔)⇔ 見張り、指導(現在)

看取り=死に逝く人への最期の助けでとしての係り(昔)⇔ 数値で管理した医療(現在)

昔と現在を比べてください。

手入れとは、茂りすぎた場所を刈って風通しをよくし、後は木々の成長に任せることです。そして刈ったものを屋根のかやぶきや畑の肥料にする。実った果実を全部採ることなく、一部は鳥やその場にいる狸たちの為に。そうした係りが、手入れ。見守りとは、本当に危なくなるまでは自主性を重んじて手を出さずに思いやりを持った眼差しで見守ること、です。

看取りとは、三宅島に伝わる話で、年寄が食べなくなったら水だけで過ごさせなさい。そうしたら30日ぐらいしたら穏やかな死を迎えられるから。そうした伝承があるそうです。食べれなくなったら胃ろうをし、管を通し、吐血したら輸血をし吐血して輸血、と、数値管理上だけだと足りなくなったものを補充する医療とは違います。人はいずれあの世へ旅立ちます。少しづつ枯れていく、という体が判断した死への旅立ちの準備を邪魔することが尊重でしょうか。

今は管理され、見張られ、指導され、あなた自身を見ることなく機材やパソコンに上がった数値を見た医者が診断する、ということです。

優しい柔らかな世界はどちらでしょうか。
尊重し合う世の中はどちらでしょうか。

わたしは昔の方が受容されている気がします。
わたしはそうして欲しいですし、あなたにもそう接したいと思っています。
それがわたしの受容であり、セッションの神髄であります。

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