お名前は失念してしまったのですが、
ある有名な御住職のエッセイでこんな話を読んだことがあります。
毎日御住職は小僧さん(今、言うんでしょうかね…)に任せず、
お寺前を毎日箒で掃いているそうで、
その際、通り過ぎる人に挨拶するのだかとか。
大抵、2、3度笑顔で挨拶をすると、
お互いが自発的に
「おはようございます」
と言い合えるそうです。
ところがある日通り始めた中年の男性。
挨拶すると苦味潰した顔をしてズンズン行ってしまったそうです。
それから毎日、寺の前を通る。
住職は毎日挨拶する。
男性は毎日無視をする。
そうかー、なんや、おもろないこと、あるんやねー、
そんな氣持ちで、無視されても怒りもせず
ただただ、その人のその状態を否定もせずに
住職は挨拶し続けました。
そして月日はそのまま流れ10年数年(ε-(´∀`; ))経ったある日、
男性は号泣したそうです。
ありがとう、やっと氣づきました、と。
わたしが毎日毎日苦味潰した顔をして
周囲に威圧していたことを。
こんなわたしに毎日笑顔で、
ただただ挨拶してくださり、本当にありがとうございます、と。
そのおかげで、わたしはやっと自分のことが見えました、と。
イチョウのこと、ご存知ですか?
あと少ししたら黄色く色付き始めて
街を黄色い絨毯で埋め尽くしてくれるのが楽しみな わたしです。
そんな、イチョウ。
臭いけど、炒って塩をつけるとしみじみ旨い銀杏
(ああ、たまらん…熱燗ヨロシク)東京の都木で、
恐竜時代からの化石的木、
なんて色んな顔を持つあの木。
庭にある方いらっしゃいますか。
今は庭があるお宅も珍しいですが…(つД`)ノ
昔、山里の庭木として植えたイチョウは
おじいさまが、孫の為に植えたことが多かったんです。
成長し、イチョウは実をつけるまで70年程かかります。
植えた本人も、下手すると子どもも実を食べるのには間に合わない。
でも、孫が飢えたらあかんからのー、と
じい様が未だ見ぬ孫の為に植えたのです。
きっと植えながらじい様の頭には
美味しそうに食べる孫の顔が浮かんだんでしょう。
昔、飢饉が何度もあった日本ですが、
山里の村は比較的死者が少なかったのは
そうした知恵と山の恵みがあったからだそうです。
山から離れた村ほど死者が増えていったと
昔の台帳の記録に残っています。
教育も仕事もひたすら成果を求められてきたから
結果をつい目標にしてしまうけど。
結果は単なる結果でしかない。
目標なんて、本当はいらないし。
それに、そうなるなー、と
自分で決めてしまうと小さいエゴの結果しか引き寄せません。
そうなんやね、と
ただ、その状態を受けいれ
ただ、誰かを想う氣持ちで、
見返りを求めずに、見守ること。
それが一番物事を無理なく早く変化させる、
そしてダイナミズムに動かす叡智と言えるのだと感じます。