先ずは311に対しての黙とうを今日と言う日に捧げます。
また、先日の東京大空襲の犠牲者、今なお戦争にある場所、紛争で疲弊した場所、貧困にあえぐ場所、また存在を認めてもらえない方々、不当な扱いを受けている方々、干ばつ、洪水、噴火、その他の被害に遭われている方々が一日でも報われる日が来ますように。
そして、今回のコロナウィルスに対しても合わせて考えて欲しいと感じます。
こうした災害や災難は予想もしない形で突如やってくるからです。
そしてそれは、
個人では防ぎようのないこと、
であったりします。
また自然だけでなく、
戦争や不況、
そうした人が起こすものであっても
大きな世界の流れの中では、
個人の立ち位置としては同じこと。
あがらい難い大きな威力として、
いきなり降りかかる。
が、しかし、どんなことがあれ、
どうなろうが、
今、命があり、
なんらかの脅威に対し生き延びることが出来たとしたら わたしたちは生きていかねばならない。
また失った命の分の想いも受け取れるなら受け止めて。
どんな状況であろうとも、です。
そうした時に大切なことは、どんな場合も
”どういう心構えで生きていくのか”
なのだと思うのです。
不安、困難、苦しみ、その時に、
わたしだけ(または身内だけ)が
生き延びていこうとするのか
共に手と手を差し伸べ、
共に生きていこう、とするのか
自分の理想や、過去のものにしがみつき執着して後悔と失ったものを見続けるのか
今のこの現状や困難をどう受け止め、
より良くしていく為にはどうしたらいいか、失ったもの、失われたものをどう引き継いでいけるのかと試行錯誤をしながら未来を見ていくのか。
災害が来なくとも、
個人的に、病、事故、だってある。
というより、
この日常があること成り立つこと、
それこそが奇跡の連続である、ということを人は惰性や慣れで忘れがちです。
なんとなく過ごしている、
つらいことが重なる、
そうすると更に、
この瞬間が永遠であるような同じことの繰り返しである感じがしてしまいますが、
同じだと感じているのは、
その人の心の在り様であって、
周りは刻々と新しい何か、
に変容している。
つまり今、この瞬間が奇跡なのだから
今を感じなさい、今を大切に、と。
あなたの目の前にいる人と、
また再び逢える保証は、
実は誰にもないのだから。
だから利休は一期一会であれ、と。
マスクがないことを店員さんに責めることでマスクは出てくるのでしょうか。
出てこないでしょう?
例えば手の感染予防が手洗いとアルコール消毒である程度感染リスクが低くなるのだということなので、自分が感染者だったとして広めない努力ということで、わたしは2つのマスク(たまたま洗えるマスクがあったので)を手洗いしてアルコール消毒をし、クールダウンの時間をとって使用、ということをしています。
※ただし感染症のプロではないので、確実性はわかりません。
しかし自分の行動範囲を鑑みて、介護施設、商業施設、医療関係、リスク高、な方々のマスクを消費してまで使い捨てマスクを求めることは、わたしの本質に従わない行為だ、と わたしは感じるからです。
自分も、他者も、尊重しながら、
どうしたら自分として一番表せるのか、
と問うこと、また体現すること、を通じて成長し続けることが自分を生きること、だから、です。

また布でマスクも作れるようですのでこの方法をされるのも よろしいのではないでしょうか。ないない、と不安からは解放されるので精神状態には良いです。
中国を二酸化炭素排出国にしているのは
実はわたし達全員だ、と言うこと。
コロナで工場が止まると、中国の都市は空氣が綺麗になる一方で、次の工程の製品の流通が止まり品薄になると言う事実。
そしてそれらの製品を使っているのは、世界中のわたしたちである、と言うこと。
一部の浅はかな人は自分は閉じこもって生活してるから大丈夫、
自分ビジネス最高!とか言ってますが、
あなたの引きこもりを支えているのは、
店舗経営や流通、運送、作り手、農業、漁業の現場で働く人。
もしもコロナでその人たちの動きが止まったら、一番何もできない市場の脆弱者なのはその人だ、と言うこと。
普段なら顔を見合わせ、肩を抱き合うこと、が安心に繋がるのに、それを奪われ、何か病氣がうつるのでは、と人と距離を置いている今が居心地が良いか、と、言うこと。
今、ぽかっと欠けてしまったこと、
に対して、今こそ氣づく時です。
そして考えなくてはいけません。
あると当たり前だったやすい中国製品、
と言うかグローバル経済の暗部を。
あると当たり前のスーパーに学校に宴会に集まりが安心ではなくなったことから、
それらがあったこと、そしてあることに感謝を。
当たり前のこと、は
当たり前じゃなくて、
誰かが誰かを支え、支え合って
成り立つのが社会だと。
一人で人は生きれないのだと。
命は支え合い、
響き合いながら、
輝くのだと。
その時に氣づき手放すのは、
自分さえ、自分は、
という傲慢さ、なのだと。
困難になった時、悪いとき、
ただ恐怖に怯えて不安をかき集めることではなく、
感謝について感じること。
日常は、ありがたいのだ、と氣づくこと。
自分も周りも、
有り難い、奇跡なのだ、と。
社会不安などのマイナス要因や危機も、
そうしたきっかけにしていくこと、
それが主体性を持ち、自立して生きていくことだと、わたしは考えます。
トイレットペーパーなどが買い占め?
びっくりしました。
うーむ、わたしは311やら台風やらで棚が空っぽとか一回も遭遇したことないのです。それで困ったことないのであります。
で、後からニュースとかでびっくりしたりします。
必要なものだけ買う。
何というかなあ、情報も、物もですよ、
必要なものだけ、にしないと。
(※予備品は醤油一本とかあります。いざ切れた時用に。
それは見なきゃいけないものを見ずに、
見なくていいものばかりを見てるからだと思います。日頃から、多分ね…。
