教わる、とは、
対象者への敬愛と尊重を持って知識や叡知の教えを請い、それを元に自らまた展開、発展させていくことです。
学ぶ、とは、
仮説をたて、それに向かい試し実践、改善、を、または一つの物事を何回も繰り返した先に現れる発見を受け取ることです。
どこかのセミナーで新しい手法のやり方を教えてもらいに行く、を繰り返すことは学びでも勉強でもなく、
セミナーのお客様な、だけです。
講師と並んで証拠写真を載せ!
学びました! 楽しかった!
って記事ありますが、当たり前です。
お客様に楽しんでもらう目的のセミナーなんだから。それはエンターテナーであって学びではありません。
(勉強は予習復習、更に勉強の循環の中にあるのであって、講座の場に座ってるだけで勉強って無理でしょう)
本当の学びの先のわかった!と言う瞬間は
アルキメデスがお風呂からユーレカ!ユーレカ!と飛び出した様な
ヘレンケラーのウォーターが雷に打たれた様に指文字と物の名前が結びついた奇跡の瞬間に近いです。
でもこの感動や感銘があるから、
また学んで行こう、と思える。
ああ、そうか、そうだったんだ、と。
それが理解が、ふに落ちた瞬間。
たかがセミナー参加でわかった、なんてそりゃ、理解ではございません。
知らなかった情報を聞いた、だけ。
愛と自立の道を選びたいなら、
真の学びを選ばなくてはいけません。
それは教えてくれる人、またそれを発案したり考察した人たち、が、それを至るまでの道のり、つまりその人への人生へ感謝と尊敬を持つことが愛。
また教えを元に自らの頭を使い、自分の時間を使い、仮説を立て、また実証し試行錯誤していくこと、つまり自立だから、です。
パクリは論文を丸写しにしたり、
ネットで氣にいったものを部分的に、
考えた人間の許可なく勝手に使うこと。
つまりカンニングです。
これをする動機は、
自分では分からなかったから、
そして自ら分からないから面倒だから、
と考え、悩み、調べる、つまり自らが思考する、と言う作業を諦めた、怠けた。
または、
さも自分で考えた、開発した、
考えついた、行き着いた、とウソをつく
ラクしてズルする行為ということですよね?
ラクやズルをしたならば、
その人自身の身にもならなければ、そもそも真の理解に至ることもありません。一見カッコがつき、一時期的、表面的な評価を得ることは出来るかもしれません。
誰かを騙せるかもしれません。
①オリジナルの人のアイデア、という他者の知的権利の越権行為
(これはよく親が子どもの部屋に勝手に入ってプライバシーを漁ることと似た境界線の侵略です。個人を尊重できていない。アダルトチルドレンや依存症の方に良く見られる境界線が出来ていない方のパターンと言えましょう)
②そして真の理解をする自らの努力を怠った、それはつまり上っ面だけでちきんとは理解してない、習得出来ていない、と言うことです。
だってカンニングするのは分からないから、でしょう?
③また他者への敬愛が持てないからこそ、その理解へと有した時間と努力及びその人を踏みにじることが出来る
以上3点をまとめると
記事をパクる段階で、その施術者は、
心の軸のない、境界線が引けない、他者を尊重出来ない、癒されていない人、ということになります。
そんな施術者から、
あなたの心を扱うセッション受けたいですか?またそんな講師から、心の軸なぞ学べるわけないじゃないですか。
その講師自身に軸がないのだから。
ここで養成講座が乱立している要因を。
それは施術者が養成講座を開催する理由があるのですが、わたしが感じる2大ポイントを以下に書きます。
①施術者側の経済的安定、及び収入UP。
→決まった日、短時間で複数の方を相手に高額収入出来る、以上の要点から開催者にとってとても安心安全便利なビジネススタイルである、ということ。
②セッションの責任 > 養成講座の責任
養成講座では先生と生徒。力関係もあり不満を感じたとしてもなかなか言えません。また、養成講座卒業後の施術者としての仕事の成り行きは生徒の責任に出来ます。
しかし臨床家としてならばクライエントその人の人生の立ち会いです、責任と覚悟の重さは全く違います。
(わたしは施術者として想うに、セッションを控えて、養成講座を主な収入源にする動機はセッションの責任の重さからの逃避、が、実は一番大きいのではないか、と感じています。よく自分一人の力より沢山のカウンセラーを育てることで幸せを広げられるからなのだ、おっしゃってますが、わたしは不完全なカウンセラーを作り、ズレた心理療法が広がる弊害の方が大きいと感じます。そこまで腕が立つなら地道に自分で健全なバランスを取り戻した方が日常に増えた方が社会全体の幸福感により貢献出来ると推測されるからです。
だいたいカウンセリングを受けよう、とする方より、わたしはカウンセリングなんか受ける必要はない、と思っている心のバランスが失われた人の方が遥かに多く根が深いのだから)
更に卒業してもまだ未熟なんだね、そうだね、もっと勉強するかい?と上級勉強会や、講習へといざなうことで更に施術者側の安心安全と収入は高まっていきます。
ですから商売の為の養成講座は行くべきではありません。
また受講を迷っている方も、
自分は癒されたいのか、癒す立場になりたいのか、を、
今一度自分に問いなおしましょう。
養成講座なら自分も癒されるし、感謝されるカウンセラーになれるなんて素敵かも♫というような考えではカウンセラーとしてクライエントと対峙した段階で精神的につぶれます。本氣でやりたいなら、この仕事は精神的にヘビーだからです。
なぜなら人の人生の岐路に共に立ち会う、という重さを今一度考えてください。
あなたの一言でその人の人生が逆転する可能性もあるのだ、と言う重みを。
感謝されて笑顔が見れて楽しい仕事♫なノリでしょうか?
覚悟と責任が問われる仕事です。
依存関係にしたらいけないから、です。
と言うことは、SNSで活動されている一部のあだ名や愛称で親しげに呼ばれたり、やたら集まってワイワイすること、とは逆の孤高な立場の仕事環境と言う方が近いです。
孤独だ、寂しい、友だちがいない、信頼出来る関係がない、人と集まるのが好き、というような方が、そうした仕事スタイルを選ぶのはその人にとり適切でしょうか?
そもそも一番寄り道しないのは、
先ずは自分を癒し、
自分の本心との絆を取り戻し、
己の希望から、
本当に行きたい道を見つけること、を展開し→職業、生き方の選択を行う
です。癒しの前に職業を決めるのはいかがなものでしょう。心が固まった状態では真の自分はなかなか掴むことが難しい。
以下に、具体的に展開します。
わたしは心理に興味がある、更に
仲間と共に感情を分かち合うことを喜び、と言う軸があるならば、
個人セッションを行う個人事業主より、看護師としてホスピスにチームとして取り組む、企業研修プログラムを運営する、
などの方があなたをより活かす道が見つかるから、です。
こうした仕事スタイルならば、同僚とランチからプライベートな話をしたりする仲間も得ることが出来る。
そう自分を理解してから、
心理療法のテクニックを学ぶ、
の方が自然ではないですか?
さて誰にでも分かりやすい
選ばない方が良い施術者、
3大チェックポイントをあげます。
①パクりの記事やパクりセッション、マニュアル通り(他者のワークからの寄せ集め)の講座、セッションをする人
タイトルやキッチコピー、はたまた写真の構図から選び方からキーワードに内容とパクる人はなんでも活用します。
わたしはそうしたこともされてきましたが、極めつけは記事をイメージ写真まで、ほぼまるパクリされた、更にはこの記事なぞは、そのままオリジナルワークにされてしまいました。
”労わりのワーク”とか…。名前は変化しているようですが。
した人の弱さを、わたしは心の底から同情しますが、そうした行為自体には憤然たる想いです。
ですのでブログ記事やら、ブログタイトルなど、よくよくその人の記事を昔から読んでください。パクる人はあちらこちらパクるので何か違和感や一貫性がなかったり、あちゃらこちゃら違うブログでも読んだことがある文章、似たようなキーワードがちりばめられているかと思います。
また人は成長します。
その人の考え方が停滞している(一貫ではなく、ひたすら繰り返し状態)ものも考えものでしょう。わたしも過去のブログを見ると幼いな、と思いますが恥を忍んで成長なのだ、と晒してします。
当時、自己啓発系界隈有名だった人が講座を受講されていましたが、テクニックが載ったテキストだけ入手したら後は用無し、と豪語し、1回目の受講で消えました。
(今は幸いその人の名前を聞きません)
なぜ知っているかと言うと、わたしはFacebookで受講生のフォローをしていたので、その人もフォローしてたのか、タイムライン上で、その方がビジネスパートーナーと、これを自分の講座のテキストにまるパクで移せばいいよねー、と会話しているのをリアルタイムで読んだから、です。
こんな人から講座、受けたいですか?
余談ですが、
その人は当時、半年間のグループコンサル、70万の受講料で自分の好きで稼げるようになる、と言うものをされていましたが、なんと偶然、同時期にわたしのカウンセラー養成講座の同期がその人のセミナーを申し込んでおりました。
同期の人は、これで私は稼げるようになる、と熱病のように熱く語っていましたが、もちろんその後カウンセラーなどで稼げるようにはなっていませんでしたし、更に違う養成講座、更にその上級…と養成講座ジプシーとなっていきました。
そんな方、多いです。
②施術者としての責任感がない人
これらの人は自分は素晴らしい腕やエネルギーだから、と
効果が劇的である、とか
ラクですぐ良くなる、とか
結果、1時間で8万、とか。
あるコーチングは1時間16万!
(そんな1時間×1回で何が出来るのでしょうか…。いやそんな何かがもしかしたらあるかもしれませんが。
わたしには無理です。
なのでわたしは1回ではお試し、とさせて頂いています)
③やたら技法を変える人・無駄に資格をとりまくる人・提供するものが迷走している人・カウンセリング中に同情して泣くカウンセラー
普遍性の確立と理解は基本とそれの繰り返しにあります。
スポーツは肉体を通してわかりやすいので例えで使いますが、どんな一流の選手も基本トレーニングはしているでしょう?
その繰り返しであきらめたり、飽きたりしないで繰り返していくことでしか見えない世界があります。そこからぶれないこと、それがその道でやっていくことには不可欠な氣がします。
ツールを増やしているようで色んな手法を導入するのは、何が自分が行えるかわからないか彷徨っているだけです。
カウンセリング中に感傷的になって泣くカウンセラーはクライエントに共感出来ていません。
え?と思われるかもしれませんが、
可哀想ね、可哀想ね、と同情しているだけ、です。同情=同じく感情に囚われた人=悩んでいる人=ぐるぐる思考、です。
同じような状態になっていては理性的な判断も、あなたに対し、一人の人、として対峙出来ていません。
だって同情=同化、ですから。
わざわざお金を払って自分の劣化した影を伴走させても新しい認知は生まれません。
共鳴とは個と個が独立し自立し合い、響き合う状態です。この人が忘れてしまった輝きを思い出させよう、です。
・(番外編) zoomを利用している人
なぜならzoomは無茶苦茶氣が悪い。
作った人も悪ければ、更に氣の悪い人が集まり使用していることで、更に相乗効果で悪くなっている感じがします。
その氣の悪さもわからないのに〇〇神社に行くと素晴らしいエネルギーなどと言ってるヒーラーさんってなんなんでしょうか。
カウンセラーも潜在意識を扱っているなら同じこと。それを感覚的にわからない人=自分自身とコンタクトをとれていませんので。
スピ系の人なら単に神社のブランド名に惑わされて、ご自身では本当の氣の良し悪しがわかってない証拠です。
話は蛇足になりますがレコファンも氣が悪い。あれで音楽を聴くのはおススメ出来ません。
故にzoomはクライアントさんの安全の為に、わたしは使いません。
氣が悪いとは波長の調和が整ってない人が過半数集っている場、または管理者やプログラマーの氣が反映されているということ。それを長く聞けば同様の波長になってしまいます。
ですからzoomを使ってる方、のセッション、セミナー受講はわたしはお勧めいたしません。
また耳は、安心安全を感じる神経経路と大変密接した関係があるので、そこから悪い物を取り入れていくことは、更に安全や安心から遠のくことになります。それを知らない心理療法家やカウンセラーは勉強不足とも言えます。
一番オーソドックスで、あなたに安全なもの、それは子守唄です。
・更なる番外編。
唐突になんですが、神さま的ななにか、は無駄に話をしません。
よく〇〇の神さまのメッセージ、龍のメッセージ、天使とかなんでも良いですが、などを書く方がいますが、それはない。
神さま(便宜上神さまにしますが人外の更に格上?とされた意識や高次元的な何か)は、王弁には話しません。
ベラベラベラベラ話すのは低次元な何かか、それは人を惑わす何か、です。 昔から民話や昔話でも王弁に語るのは悪魔の役割、詐欺師も同様。
なぜなら人は、自らの肉体や頭脳を使って答えを見つける為にこの世に生を受け、人生を経験し味わっているのに、その答えをベラベラ話す神さまなんて、テスト中にカンニングさせる先生みたいなものです。
また、後ろめたい人ほど口数が多くなりませんか?嘘をつく時、必要以上に言い訳しちゃいがちでしょう?
そんなの神さまやら高次元の導きなわけないじゃないですか。
黙って導きのヒントをかざすか、見守る存在である、と わたし達は感じています。
しかしがら時に その人にとって必要なメッセージを託される場合もあります。
が、その場合は高次元であればあるだけ言葉と言う小さなデータ量しか伝えられない手法をメインには使わない。
ミヒャエルエンデのモモ、という本がありますが、主人公のモモが世界の秘密を目撃し、あまりの美しさに仲間に伝えたい、と思うシーンがあります。
が、時を支配する高次の存在はモモに、おまえが見たモノを理解し言葉に出せるまで、おまえ自身が消化出来るまで長い時間がかかるものだ、と告げます。
その後言葉どおりにモモはその見たものを理解するために何年か寝てしまいます。
上からのメッセージとは、
そういうモノです。
また心理療法から出てくる言葉、イメージなども、
深い場所から出た場合はそうしたもの(モモの様に何年も、はかかりませんが)が多いです。
また、高次元から託された何か、は、無闇矢鱈と誰にでも話せる内容ではない。重要であればあるだけ然るべき時まで固く口を閉ざせる人にくるもの。
そういうことが理解出来ず、
”わたしにはそういうモノの援護がある特別な存在だ”
と誇示する為に
神託があった、
メッセージをもらった、
などと その状況をベラベラ話すような人へ、神さまか何かは託すことはしないように、わたしは感じます。
そう、最後に話すと言えば、
カウンセラーや心理セラピストでセッション中、クライエントさんより多く語る人、も違います。それは駄目ざんす。論外です。
我々の真髄は、あなたの物語をあなたと同じように体験しながら
生きた存在として、あなたの目の前に存在して聴く、ですからね。



