”同情”と”共感”の違い

二人で同じ動作

そう言えば、


共感と同情の違いはわかりますか?


同情とは、

「あなたの話を聞いた、わたし自身の感情(=感想、私見)です。」

わかりやすく言うと、話手さんの話を聞いた、聞き手さんの主観感情と言うことになります。夏休みだから読書感想文を例に出しましょう。

あなたはある作者の話を読み、あなたが感じたことを書く、と言うことと同じです。それはそれで色んな読み手により受け取りがありそれを話し合う場は楽しい読書会です。しかしその読書会で語られる内容は読み手それぞれの解釈、読み解き、です。それは作者の真の意図十まじか、というとそうではない。作者が投げかけたテーマをそれぞれに解釈しその違いを愉しみ、膨らませていく場です。

しかし心理療法における、またはあなたが真に理解された、または本当にわたしの話を聞いてくれた(=共感してもらった)と感じる場、それはあなたの解釈をそのままトレイルしていくようなもの。

あなた、はどう感じ、どうその感じたものを表現しているのか、です。

共感とは、ひたすら作者自身の真意に近寄る作業になる、なり切ると言うか。森村さんと言う自分自身が絵画になりきる芸術家がいますが、まさにあんな感じ。

”鑑賞”、と、”なる(それそのものになる)”、では違うのです。

そうね、

そこに読み手の主観は、無い、のです。作者はどう考え感じたのか、何を想うのか、そこにひたすら近寄り重ねていく作業になります。

わたしは共感能力がある、と言うのはクライアント自身の感覚になっている、と言うことです。それはクライアントさん自身にもなるし、クライアントさんを取り囲む人にもなる、多重な生をその間、同時に体験している、うーん、同時と言うか、次々になりかわっていくような状態と言うか。

その時、わたし(あらた)は、ああ、この人の今、はこうなんだ、と感じています。

この苦しみや痛みとクライアントさん自身が、お互いに、知り合い、わかり合う為にどうしたらよいのか、気づかせられるか、また中にあるこの痛みは何を表現したいんだろう、と試行錯誤する訳です。

わたしは2人(本人と本人の本音との)の橋渡し役です。

先ずはそれがある、ということを認めてもらうこと。

痛みや苦しみが強い人ほど自分の本音を無視しているからその本音があることをわかりません。心理用語で言えば乖離状態。苦しいから、悲しいから、辛いから、見たくない、あることを認めたくない、けれど、それらはあなたの一部。大切な大切な一部です。


例えば今の学校はイジメを数値化して評価(イジメ以外も)するからイジメは0、にしなきゃいけない。

しかしイジメは人間が複数でいる場合、必ずある、と考え、どう共存するかと受け入れていく方が遥かに風通しのよい場所になりはしませんか。

イジメを隠蔽するより、認め、対象者の声をそれぞれ聴いて寛解に持っていく方が。

イジメた側、イジメられた側、それぞれに言い分がある筈です。それぞれの声を聴き、結果、分かり合えるならそれでよし、分かり合えないなら転校する、でもよいじゃないですか。それぞれケースが違うのだから。それぞれに合う形を模索する。それには言い分を聴き、話を聴いてそれぞれが納得する方法を共に寄り添い発見していくことなんだから。

あなたの中に悲しみ、苦しみ、抵抗、があるのは何かを訴えているからです。勿論、喜びも、笑いも、感動も、ね。みんなみんな、そう。認めてあげないと。

それが自分を見つめること。

それが自分を大切にすること。

だから集中力がとても必要だし、都度都度確認しないとセラピストが自分自身すら見失ってしまいます。一体誰の感情か、誰の痛みの中に居るのか分からなくなってしまうからです。

なので正直結構疲れます。

痛みを浄化する量が多いとかなりカロリーを使うので(太ってますが)セッション中にお腹がなったり(そうした場合クライアントさんは気がつかないモード的ですが)ちょっと冷や汗がこちらは出てます…あとふらついちゃうので飴玉を舐めてカロリーを補充したりしてます。

脳味噌は本当にカロリーを消費する部位です。一過性だから痩せはしないけど。(痩せたらよいのですが…はははは)


この時、深い領域に行けば行くだけ、時間はなく(と言うか操作できると言うかタイムマシーンがあると言うか)、多次元的な状態なので、ああ、本当にこちらの世界では多次元なのだ、と実感せざる得ないんですよ。多次元的とは、今に全てはある、と言うことです。

今、の行動が未来のどちらに繋げるか、可能性はさまざまあるけど、クリアしないとタイムラインは違う道と繋がってしまうし、色々ねぇ。本当人生って複雑です。

カウンセラーになりたいなら、

同情しちゃダメです。

それはあなたの”クライアントさんへの感想”だから。

で、もしカウンセラーと言うか心理療法をする人になりたいなら、他者を共感する、つまりは他者になり切れるか、と言うことです。自分も他者もある意味執着しないで、クライアントさんを丸ごと受け入れつつ、かつ、理性的に道を示さないといけません。

その素質があるな、と思う方は向いているかと思います。


話は変わりますが、

ちょっと前にカウンセラーブームを作り出したあるカウンセラーの師匠の心理セラピストさんが、こんな共感覚を使ったやり方わたしだけ今しかしてない(↑上記共感のこと)と、たまたま今日のブログ記事に書いてありました。何をおっしゃっているのだか…。


まともなセラピストはみんなしてるし、セラピストの条件にあげてる本もあるぐらいです。実際ちゃんとしたカウンセラーは共感能力があり皆さんやってる。


出来ないとセッションにならないから。


心理療法の必須能力と言えるでしょう。カールロジャース最高のセッションと言われるものの記録を読んでもこの状態にロジャースがなっているのがわかります。(セラピストならああ、だからこの流れが…とね)セラピスト的に言うとゾーン入れてる、ってやつでしょうか。感覚に個性があるので表現はさまざまでしょうけどね。心理学の本などの事例にその共鳴する体験の報告があるし。


実はわたし、昔、その威張っていた心理セラピストさんの集団セッションを観たし、受けたことあるのです。その時に、わたしの虐待体験に対して彼はこう言ったのを忘れません。

この方も最初始めた頃は正しい共感能力があった筈です。体感しているから。

しかしわたしが受けた数年前も正しい共感が出来ていたのでしょうか。だとしたら、わたしに言ったような発言が出たでしょうか?

わたしには疑問です。

または能力的に向いていたとしても、わたしはオープンカウンセリングでわたしだけでなく好みのクライアントだけを贔屓する姿のあなたを見て幻滅しましたし、わたしに声をかけてくれた2人の方も同じことを感じていたようで、あれはないよね、とも言っていました。

クライアントさんを贔屓(ひいき)する、は、評価する、です。

それはどうなんでしょうか。だからあなたは心屋さんの師匠なんだな、と思います。


確かに技術、能力、知性は大切な要素ではありますが、やはり人間性が一番この仕事には必要な気がしています。(勿論、わたしもまだまだです。けれど若いうちのわたしなら余計無理だった、さまざまな経験を経て歳を重ねた今だから、かろうじてでき始めたと感じています)


更にこの能力は自分と他人の境界線が曖昧になるものです。よりしっかりした自分を直視し、更に調整する能力も同時に持ち、常に冷静で客観視出来ないと難しいです。

更にそれを支える人間性はあるでしょうか。

その能力と継続は可能ですか?

そちらも是非振り返ってみてください。


単に相手の気持ちを感じやすい敏感なわたしなのー、的なモノが共感能力ではありませんよ。

「クライアントとセラピストの間に何も挟まない。技法すら…それぐらいの勇気は持てるでしょう?」-『セラピーの小さな一歩』より、これはジェンドリンがセラピストに向けて諭した言葉です。

これを読んでいるあなたがどうかちゃんとしたセラピストやカウンセラーに巡り会えますように。

”同情”と”共感”の違い
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