心理療法は穏やかなモノですよー、が、しかし…

前の記事の続きと言うか。
物語から見る心理療法↓
 
”心理療法はこんな感じに進みます ”物語から抜粋” ”
↑記事内にある例はちょっと強めのわかりやすい ケースですが、まあ、物語なんでそこはご了承を。 人によってそんな時のセッションもあるけど、毎回ではないし、だいたいは穏やかだったり、落ち着いたものの方が多いかな。特に最後は統合に向けて...

これに限らず、物語や芸術品から得るカタルシス、いやそもそも、文字や絵や歌や踊りや作品を生み出すこと、それ自体が情動や社会への不条理を昇華したものである、と言えるでしょう。
※ただし素人芸の様な心屋さんのような歌は違います。なぜなら本物は我を手放した時に出来上がるもの、で、心屋さん的なモノは我の執着の結果だから、です。



話を戻しまして。

先日、知人の方が腰痛で、
じゃー整体しましょうか、という話になりました。

それでですね、知人は、わたしが心理セラピストの仕事をしてることも、そもそも対面で話をしたのも2回目ぐらいで何も知らずに我が家にいらっしゃった訳です。

そこで整体前の準備に神経系に影響する目やら鼻やら耳やらを解した方がよいなー、と思われたケースだったので
(精神的な疲れは、こちらの神経系の疲れの形で蓄積されるケースが多い。
何もしてないのに怠い的な鬱症状は過度な緊張の高止まりからくることが多いです。)


目の神経を緩ませてたらフェルトセンス※が
(※フェルトセンスをカウンセラーや亜流のフォーカシングをしているセラピストの方でも身体にある感情、と誤解されてる人がいますが、感情だけではない、”そこに感じる何か”と言うことで哲学者であり心理療法家のジェンドリンがフェルトセンス、と命名しました。
ですから身体の中の”それ”と向き合うことなく感じなくするような手法は全くもって何も心理療法を、ココロを理解されていないやり方です。

なぜなら、それ、はあなたに何かを氣づいて欲しい何か、を含んでいるから、です。
大切な何か、を。またそれ以外のモノ、も包括した何か、なのです。
そのメッセージこそ、あなたが辛い思いや悲しい想いをしただけ、で済ませない為に得るべきもの。

ユダヤ人であるジェンドリンがヨーロッパからナチスの手を危機一髪逃れられたのは、それ=フェルトセンス の声に父上が従ったが故なのは有名な話。(フォーカシングを確立したのはシカゴ大学にて成功したあらゆる心理療法を何百件と分析した結果、です。だからフォーカシングは手法と言うより心理療法における成功への指針、目安なのです。
けれど思い出すに、父があの時の家族の脱出のルートを変えたのはフェルトセンスの囁きだったと回顧した文章が残っています))


こんにちはー、と
わたしにアピールしてきたので
(その方の今現在の状況は目からストレス因子を多く受けてたのでアクセスしやすい状態になった訳です)

それまでしていた世間話と同じトーンでそのまま心理療法へ。




あらた:
今、何か氣になる風景が、
浮かんでる風景ありますね…


知人:
ああ、実は日常のこんな景色を
思い出してました…


あらた:
そこにちょっと寄り添ってみましょうか
腰も楽になりやすいから


知人:
最近、ずーっと悩みの種なんですよ



あらた:
なるほどねぇ。
いったん整体ではなく、
その悩みの種と上手く付き合うことをこれから試してみますか?
もちろんしたくないならそれでも良いし、
してもいい。あなたのやりたいように進めますから。
そして言いたくないなら、その浮かぶ風景が何か、をわたしに伝えなくても構いません。
また逆に話したいなら言っても大丈夫。


って感じです。


そんな感じで わたしのセッションを受けた人はなんだか訳わからん内に療法に入ってると思います。
世間話をしていたら、あれ、れ、と。


クライアントさんが、
先生…!カウンセリングお願いします。
緊張してます…
わたしこんな状態で…号泣。

どうしたらいいかわからない。
とか
苛々して許せなくて、忘れられなくて
頭から追い出せない!!!
辛かった…(泣く)※

とかのケースはあまりないです。

それにねぇ、※上記のような思考状態で泣いたり感情を出しても根本解決にはならないから。
その場限りの解消にはなるけど、それは居酒屋での愚痴大会みたいなものでして。


あらた:
初めまして、あらたですー 
よろしくお願いしまーす。


クライアントさん:
こんにちは…

 
あらた:
こっちは晴れてますよ、
そちらはどうです?



クライアントさん:
あ、あ、こっちも晴れてますね…



あらた:
そーなんですねー。
今日はどんなことでしょう



クライアントさん:
…何かある、って訳でもなく
ただ生きづらいと言うか
何というか、上手くは言えないけど…



あらた:
なるほど…それは言葉に上手く言うのは難しいよね…ところで、
それ、そこにあるの、なんです?


クライアントさん:
え?
……あ、ああ…(沈黙)
←ここから、が潜在意識の世界です。



人は日頃は顕在意識上で生きていて、
(当たり前ですが)それ以外が認知しにくい。悩んでる方はそれが出来ない、と言っていい。
が、話す指示的カウンセリングは顕在意識領域のみ、フロイトの精神分析は言語から心理療法家が潜在意識にアプローチするので毎週通って6から8年かかる訳です。

それをどうにかしたい、とミルトン・エリクソン(催眠療法)、バージニア・サティア(家族療法)、フリッツ・パールズ(ゲシュタルト療法)、ロジャースのセンタード、ロジャースの懐刀だったジェンドリンがフォーカシングなど様々な療法やセラピストが花開いた時代がありました。

方法はどうあれ、
どれも潜在意識を意識下していく、
と言うことです。
(ま、その後、薬物治療が主流を占めるまで…。日本で精神科に行くと対面は5分で薬物対応がほとんどなのが現状ですね。
残念ですが、確かに時間がかかりますから、なかなか今の医療体勢では難しい。)


その様々なアプローチは乗り物は違えど、潜在意識と言う目的地へ行くための物。

外せない大切な主要部分は、
セラピストやカウンセラーがどれだけ、
クライエント(心理療法の話ですからあえてクライエントを使いましょうか)を、潜在意識へ正確に意識レベルを深められるか、です。

その意識状態を深め具合を測ること、判断するのがフォーカシング。被験者の意識レベルを段階的に研究し、どの段階にクライエントが達したら、心理療法の効果がどう反応に出るか、成功したか、効果を確かめた論文もあり興味深いです。


だからセッション中、セラピストの役割は冷静にクライエントを観察し、状況を分析し意識レベルを深める誘導をしていると言えば分かりやすいでしょうか。


またその変性意識は催眠状態なので、
下手なセラピストやカウンセラー
の誘導では逆に

潜在意識にゴミを溜める危うさ、
潜在意識を傷付ける危険性、

も伴います。


だから単純に心理セラピーやヒーリング、などなにがしのセッションを受けた際に涙を流す=癒された、効果あり、の目安には必ずしも=ではない、と言うのはこの事です。涙は潜在意識が傷ついた場合でもあるからです。

また変性意識状態が深まれば、クライアントさんの理性が緩みます。緩むから潜在意識にアクセス出来るのです。
故に、いつも思考が強い方などは、
言葉が出なくなるような何というのかな、ぼわーとした放心状態になる場合もある。


それは怖いと言うより、一挙にゆるんだ、と言う状態です。そんな時、セラピストが理性的な提案をすることで、意識の均等を保つことが出来るので更に深く、
自己対話が可能になるのです。


わたしがトラウマ的なものを自己セラピーすることを勧めない理由はここにあります。トラウマを抱えた部分はより深い意識下にあり潜在意識の中で意識を冷静に保てずに迷子になるから、です。


だから心理療法自体は怖くはないです。
トラウマと対話をしながら、とりあえずのワンクールまで回数をしてもらえたら、
統合して自分のコア(自分軸)も発見していく行為だから。


コアまで行けば、
だいたいの方が、
例えば親がああだった、
などの過去よりも、


ああ、楽だ、視野が広くて、
足が地に着き、呼吸が出来る。
穏やかな、しかし何か感激した自分を発見した…ありがとうございます…
(この ありがとう、は自分自身の存在に向かっているように、わたしには感じます)

とその刹那は感激に包まれる方が多い。



が、しかし。

怖がる人、セッションに一歩躊躇する人、
セッション後、迷子になる人、
それは自分の人生の使命や目的、から回避してる訳です。

自分の使命が、怖い。
こんだけ自分の生きる意味を知りたいって言ってるのに、ね。


強い言い方で言えば、
受ける前は被害者や弱い人、でいられる。
しかし自己回帰セッションなどをしたりしていけば、心身共に統合され強い自分、自分は何を求めているか、また過程で、
自分自身の改めるべき癖などが見えてくる(誰しも欠点があるのだから改善は必要です。)
自ずと自分自身の課題、挑戦が見えて来る。


セッションが終われば、改める癖を自分で氣づき、抑制したり方法を変えたりしながら、自分のやるべき挑戦を自分で実行していくビジョンへ努力する。
これこそ自分自身の、
あなたがこの世における創造。


だがしかし、

そこが、怖い。
これから、逃げている。

と、わたしは思う。



そうした人を、
わたしは嫌な程見ているからこそ、
一部のブロガーやカウンセラーなどが主張する、

本来の自分自身で生きたらラク。
そのまま何もしなくても価値がある。
あなたはそのままですっばらしー
好き勝手に生きよう、的なモノへ人は集まるのだと言うのがよく分かる。
それを正当化してくれるから。



それは

あなたは素晴らしい、
あなたは悪くない、
あなたは実はすごい能力を秘めている、

とひたすら根拠なく言うのも同じだ。



もし仮に、あなたが底沼の様に湧き上がる劣等感に苛まれるならば、
わたしなら、
その囚われから脱する為には、


セッションで未来と自分の望み自ら感じてもらい、
それに向かって自分を信じて自ら動き精一杯、挑戦し自分を生きなさい、そう言う。
そして本人がチャレンジし、動き、いつか血肉としてくれるのを、待つ。



それとも、

いやいやあなたは素晴らしいんだから、
何もしなくていい。
そのままで、あなたには素敵なんだから。
なんなら、いつでもここに来たら認めてあげる、安心安全な場所だからね。戻っておいで、そう言われ続けたいのか。

どちらが本当に自分を愛することなのか、と、わたしは問いたい。


もちろん命に無駄なんかない。
全ての人は勿論、素晴らしいのだ。


しかし、その命を燃え上がらせ生きていく努力とは、
自らが考え行動した時に起こる化学反応であり、その時こそが後々自らの人生を振り返った時に最良の時間であった、あの時間はわたしを成長させてくれた人生の勉強の時間だった、
わたしはわたしを生きたのだ、と
誇れる刻となる。
それは自分に集中した時間だから嫉妬とかをしている暇もないのだ。


だいたい失敗して未完成だから、
次はどうしたら上手くいくかとワクワクして挑戦出来るのだ。これが本来のワクワク、だ。浮ついたワクワクはワクワクではない。上手くいくか、どうなんだろう?と言う心臓の高鳴りがワクワクなのだから。
そして失敗の数=成功した時の歓喜量、なんだから。

完璧な存在ならば、それは味わえないんだからこそ未完なまま進め、嘆くことにエネルギーを注ぐのは卒業しろ、
そう、わたしは言いたいのだ。


わたしはクライアントさんにそう感じて欲しいし、べき論はすべきではないかもしれないが、あえて言おう。
人はそう生きてこそ、心から全てに感謝出来、生命賛歌の歌が聴こえる瞬間であり、人はそれを誰しもが味わうべき、だと。

対面ご希望の方は部屋とりがありますので2週間前あたりの余裕を持ちお申込みくださいませ。よろしくお願い申し上げます。

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