あの人は〇〇だから駄目、とかの決めつけ思考からの脱却

唐突ですが、わたしは本当なら靴を履きたくないです。

理想的なのは一年中、下駄。乗り物もロバや馬や馬車がいい。
水筒も瓢箪に憧れている…(ステンレスは不味い、が、ガラスの水筒今はほとんどない(涙))が、それをしたら確実に信長のうつけ時代になるので我慢してます。(子どもにやめて、と頼まれました…)しかし最近の憧れは土や木や牛糞や葉で作る家。

半分は江戸っ子から連なる東京生まれなんですが、田舎で生まれてたらある日山に入って世捨て人になっていた可能性と言うか、今もなりたい…かも。
舞台やら美術館やら本やらが好きなんで、東京生まれで自動車を修理したり蛇を撃退したり農業のスキルがないことと文化活動が好きということが(舞台や本)ギリギリ世捨て人化をしないラインを保ってくれているのでしょう…。

中年であり、そろそろ自分の終活も気になるわたしの理想的なお墓はアイヌの方々のものです。
子どもが親を思い、墓標になる木(男性用、女性用で決まってる)の命を頂き、削り、彫刻を施しその人の思い出の場の地に還す。これって逝く人にも、送る人にも本当によいものです。

アイヌの方の葬いの儀式のドキュメントを観て本当に感動しました。
残された者が逝く人へはなむけと自分の哀しみと向き合える両者にとり崇高な時間になる大変素晴らしい葬いの儀式とお墓だった(今、土葬が禁止されている為、形だけに。本当残念。アイヌ古来のお墓に入りたい、と望まれた故人の方の気持ち、わかります。わたしもそうされたい)逝く人は思われ大地に還れ、送る人はゆっくりと逝く人の想いを味わってそれを昇華出来るから。

お墓も自分を直接知る世代、子ども、孫を過ぎたら墓標も全てが自然に還っていく。そしてその養分は次世代の芽吹きの栄養となる。命の循環へつながっていく。それでいながら直接故人を知っている世代の子や孫がお母さんに逢いたい、そう思った時には行かれる場所(墓標がある)は、存在しているし。

北海道・アイヌ民族の遺骨 故郷の土に返したい:東京新聞 TOKYO Web
北の川を銀色の群れが遡上(そじょう)しはじめた。サケだ。産卵して力尽き、その体はやがて故郷の土と水に返る。 恵みのサケを「神の魚」と呼...

なんて素晴らしい。わたしの骸が微生物の明日になり、ミミズの生きる糧になるよう捧げたい。
我が身をどうか受け取って欲しい。
そうやってわたしは大地に還りたい。

今、死や穢れや闇、老い、病気、死などをを嫌い、隠し、亡き者にしているから、人は必要以上に死を恐れて、刹那的に生きてしまう、今を懸命に夢中に生きる、と言うより、今がよければいい、と生きていると感じる。

還れる場所、永遠の循環を知らないから。
見ようとしないから。
だって、それを見るためには死や不幸や別れ、そして幸せも、ただ 在る と受け入れなければ見えない世界だから。

今、90%の人が病院で亡くなり核家族は老人や子どもと隔離して生きている。生活に死、老い、幼さ、病、を遠ざけて生きている。トイレも流す。ウンチも大切な腐葉土になるのに。汚い、いらない、ものは流す、無視する、見ない。

(まあ、そもそも地球の命の循環から離脱して搾取のみのレールに乗ったから現代人は虚無感を感じて生き、そこから逃げる為に享楽的な刺激で麻痺させてるのでしょうけど)

けれど汚いとかいらない、とか、あなたにとって、であって誰かには大切な物かもしれないのに(だからメルカリが流行ってるんでしょう?ってわたしはメルカリが苦手だからしませんが。自分が使わない物はただで必要な人に譲ります)

でも、それって生を軽んじて生きていることだと感じる。だって物事は全て多面的なんだから。

自分が見ている部分、理解した、と思ったことなんてその中の何%だろうか。そう自分に常に問いかけたら、簡単に、これはこうだ、あの人はこうに違いない、なんて決めつけやジャッジはしなくなりますよ

あの人は〇〇だから駄目、とかの決めつけ思考からの脱却
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