オープンカウンセリングにおける不可思議なクライアントの反応が、一年近くかかってやっとどういうことで起きるのかわかってきました。
それは通常の個人カウンセリング、セッションでも起きていることなのだと思うので、カウンセリング、およびセッションを受けたいと検討している方へ注意喚起として記事にしていきたい。
以下4回にわたり書いていきます。



”泣けません…”と。
わたしはかなりびっくりしまして。
音楽療法は泣くためにある訳ではありません。
音楽聴いて、過去を懐かしんだり、こんな曲あるんだー、いいねー、とか、思い入れを語り合いたい、
歌詞を読んで良いよね~、わかるわかる~など感じ合うことは単なる音楽観賞です。
ですから感動してウルウルするとか、それはそれで個人的に楽しむ、趣味友と語り合うことは楽しい時間ですが心理療法ではない。
なお、昔から特に悲恋モノが歌や芝居に多いのは、歌だと他人事として距離をおいて、(曲の中の人のこと)”悲しみを味わえる私”を楽しむのだ、という説があります。悲恋を味わえば、涙効果もあり日頃とは違う高揚感を感じられるからです。
一説には性的快楽に似た脳の反応が見られるそうです。
人間って面白いですね。
さて本来の音楽療法の目的は、
神経を防衛から安全へと切り替えてもいいよ、というきっかけ作りです。”からだ”の芯を緩ませ解放していく(トラウマがある場合はトラウマに対応しなくてはいけないので聴くだけで治癒は完結はしませんが促進しやすくなります。アメリカでは医学博士が、そうなる為の波長を調整した音源を鬱病や自閉症の方への治療として使っている方もいます)
神経回路の緩みや切り替えにより、人により、その人の癒しの段階過程により、反応は様々です。わたしはその人と波長が合った曲をセレクトしてお渡しするのですが、その方のなんというかな、トラウマに対しての反応がその段階に応じて”出る”。
トラウマが近くに感じるとしたときに、ほっとする段階なのか、まだまだ恐怖がある段階なのか、などなど…。
で、なぜこんな話をするかというと、
皆さん、今はスマホの時代。
様々なブログの感想やらオープンカウンセリングの様子やらを色々読んでいる。
泣いた、癒された、勇氣を出した、
魔法の言葉の音楽を聞いて涙が流れた、号泣した。
わたし一人じゃない、
同じような悩みを持ってるって確認出来た、
流れ弾に当たった、
会場みんながそれを見て感動…
冒頭の音楽を聴いてくださいとお願いしたクライアントさんは
泣けないのは違うのではないか、と思われたのではないかと推測される訳です。
それは実際にオープンカウンセリングにて、フェルトセンスが出ていない(=※わかりにくいので平たく書くと”本音の部分にタッチできてない”とざっくりご理解を)のに、進んでいく不思議セッションに非常に似ているということに氣が付きました。最初それを見た時、なぜこの人は施術者に合わせて
しかし何度かそれを観察していくに、
色々なブログや実際にお茶会やらイベント、オープンカウンセリングで事前学習をした方は頭の中に、
ああ、なれば癒された合図!と変な図式が入っているのではないか、と氣がついた訳です。
その人が色々ブログやお茶会、オープンカウンセリング、イベント、講座等で聞きかじったものを総称し独自に作った癒し脚本的なもの、です。
それにのっとって、その人は無意識に癒された自分という演技している・・・
事前学習を踏んだクライエントは無意識に(自分の思う)癒されたクライアント役を演じてる可能性が否定しきれない。
わたしも早く癒されたい、変わりたい、
(あの派手に泣いた人はいいな…わたしも早く楽になりたい)
せっかくお金出してるんだから効果があるハズ、出さなくては…という焦りが、それを促進している可能性あり。
《更にわたしの見解》
その演技を施術者が見抜ける人である必要性があるが、それは言語、行動だけでクライエントの状態を観察している施術者には難しい。
セッションの共鳴性と追体験という相互フィールドを理解し、実践出来る人でないと見抜けることは困難である。
②、一方、施術者側の過剰期待
オープンカウンセリングやお茶会を開催している施術者側の目的は講座、セッション、養成講座(より高額で安定収入が見込めるもの)への入り口として、先ずは安価なものを提供している訳です。
故に、安価なオープンやお茶会にて受け手はもとより
見学者までもに”この人スゴイ”そう思ってもらう必要性がある為、
俺の、わたしの技を体感してくれ
素晴らしいでしょう?
という劇的効果を見せつけたい。
故に、その後の本来の心の健康なバランスを取り戻し健全な人間関係の中でクライエントに生きる力を取り戻してもらう
という心理療法の目的よりも過剰な期待を優先させていると思われます。
さっくり言えば、
その場で泣いて、叫んで、欲しいわけだ。
パフォーマンスはなるべく派手に分かりやすく。なぜなら見ている人にも訴求効果があるように。
故に分かりやすいストーリーをクライエントに語ってくれたら、なおありがたい。「嫌われたと勘違いしていたけど、実はお母さんは私を愛していた」的な。
更に、それは、ああ、私もそうなのかもしれない、同じ同じ、共通点がある…そう見学者に思ってもらえる、そんなストーリーを。
恐ろしい化学反応はこうなる訳です。
”こう反応したら癒されたクライエントだ”の演技をしているクライエント
×
それを起こしたい施術者
=本来の癒しとは別の、
過剰演出による、期待通りの名演技に会場が涙であふれるひと芝居”
ましてや親の期待を演じてきた人生を送ってきたアダルトチルドレンのクライエントは施術者の望み通りに、期待を背負う。そして小芝居のセッションが完成する。
そう、その場でクライエント、施術者、周りも大泣き、流れ弾が当たりまくりの感動の大芝居が…。
芝居であれば、拍手喝さいそれもいいが、
「あなたの目的はなんだ?」
ということを、わたしは問いたい。
クライエントなら、
他者の期待に沿う役者になりたいのか、
自分を取り戻す心理療法を受けたいのか。
施術者なら、
なんだかスゴイ人、神業カウンセリングと思わせる仕掛け人でありたいのか、
クライエントに寄り添う施術者でありたいのか。
何度も書くが癒された過程は人それぞれ。
そこにオリジナリティが、個性が出ます。
だから誰かの感想や様子は参考にはならない。
目安、ですよ!
女性なら生理の期間も痛みも、
目安はありますが様々ですよね。
似たようで違う。
子どもの発育も、勉強の歩みも、
みんなみんな一般モデルはあるけど、
違う、それと一緒。
でもちょっとセッションなんて内容や様子が
あまりにわからないと単純に怪しいし、怖いとびっくりさせたくないから雰囲氣をお伝えして安心して欲しいから、
(当たり前、まして安い金額じゃない)
感想やらを載せる訳で。
もともとは感想をブログで公開するのも、
お茶会やらオープンカウンセリングなど入り口を広く低くしたものを開くのも、そういった善意から来てると思います。
でも、だんだんそうしたものがいっぱい増えたり、
競争が激しかったり、ちょっと目立たないと、という意識が過剰になった結果、だんだんずれてきたのではないのかと。
わたし自身は自分のリソースを様々検討した結果、中途半端なものよりも(お茶会などのような)一回のセッションをお試し、として
提供することにしましたが。
良い、と感じて続けていただけるなら、そのまま一回分としてなるのでクライアントさんにとってシンプルでリーズナブルかな、と。
(最初は一回だと効果が総体的に出にくいから嫌だったのですが
受けて側からしてあまりにリスキーな提供だなあ、と思いまして)
周りは流れ弾って、あまり当たってないぞ、という体験がありまして。
それに出てきたものが左脳分野なら
あなたはどう選択するの?と
問いかけるし、
右脳の中の怖さなら音楽療法や、
対面じゃないと出来ないけど、
”からだ”にタッチして安心の土台作りから始める。
(最近はそれを更に重視してますね、自分の手技もやっと
より深い部分への入り口にたてたような氣がします。)
療法に一定の法則はあるけれど、
マニュアルもどきでは対応しきれない。
セッション中も、この人へは…と計画するけど
常にその人の”今”により変更変更。
個性に合わせてやる順番も違うし。
自分のこだわりよりその人が大切だから。
だから順序の決まった講座運営には、
わたし自身は今は興味ないです。
勿論グループでやる講座だからこそ、の分野とやり方、効果は別にあるのでその分野は美月さゆさんに任せよう(そしてクラアントさん達や、わたしの知らない方々(こちらは一般社会での人たちだったりなので名は伏せる))

言う=癒えた=100%
泣いたら=感情解放、消化、=100%
という単純図式にはなりません。
時に、そう言うケースもある。
奥の奥から湧き出る涙が癒す場合もある、
怒りと触れて悔しさから、
悲しみから涙が出る場合もある、
右脳にある感情を左脳の言語化することで、自らの生きざまを深く腑に落とす場合も、ある。
が、しかし、
あなたがどんな風に癒されるか、
それは最終的にはあなたしかわからない。
やってみなきゃわからない。
(それが人間の奥深さじゃないでしょうか)
わたしはどんな人とセッションしてても
一回はそう来たか、とびっくりすることや、ほー、と感心することがあるものです。この人ってこんな人なんだなあ、と人の多様性に触れる一時。
だからクライアントさんなら、
施術者の演出プランと脚本にのって、演技しちゃだめよ。
だって、あなたは親の期待を演じて自分を殺して生きていたから得意だとは思うけれど、心理療法内でも同じことしてちゃ、
だめじゃないの。
誰かの期待に応えるあなた、から
わたしが、わたしの声を聞く、へ
施術者は施術者で自分の初心へ還らなくてはいけないですよ。
あなたはなぜ、施術者になったんだろう。
誰を救い、誰に寄り添いたかったんだろう。
その想いの原点へと常に還らなくては。
誰かに期待する(脚本通りにコントロールしたい)あなた、から
期待をかけない、ありのままの”その人”を受け入れる、へ
と、わたしは思います。
