本当の自分に還る為の指針”自己肯定を高める”生き方の提案

ハチドリのひとしずく ~あなたに何が出来るのか~

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ある場所の巨木。

我を張ることなく、人知れることなく、
静かにただ何百年と生きて、
他の生き物の時に日陰となり、
時に巣となり、
時に食料としての葉や樹液を、
周りの命の拠り所になっています。

あるリンポチェに関するドキュメントを観ました。それは少年がリンポチェ※として幼くして親元を離れ、世話役のおじさん(お坊さんで治療師)と共に暮らし、そして僧院へと旅立っていくまでの話でした。

チベットでは
高僧(ダライ・ラマはその筆頭)は、
輪廻から解脱をせず、人びとに寄り添う為にまた人に生まれ変わってくると信じられています。

その人は”リンポチェ”と呼ばれます。


昔からチベットではリンポチェは僧院に迎えられたり弟子が迎えにきますが、今、中国政府がチベットを弾圧し、自然破壊と人びとの文化を壊し続けています。それによりこのドキュメンタリーの主人公の若き少年のリンポチェも中国政府の国境を越えられません。
(そもそもダライ・ラマがそうですね…
故郷に帰れない)


自分は前世で高僧の生まれ変わりの記憶がある少年ですが、
周りの大人からは弟子が迎えに来ないおまえは偽物だ、と罵られ追い出されたり、慣れない育児に戸惑うおじさんの困惑、育児に翻弄されて生活費も底をつく生活(本来はお坊さんなのでお布施で生活するところが国境などの文化の分断などで上手くいかない)苦難の連続を、ただそのままに映し出した完成度の高いドキュメントでした。


二人とも、本当に純粋で、お坊さんだから常に沈着冷静か、というと全くそうではなく、怒る時は全身で怒り、泣く時は人目をはばからずに泣き、笑う時は心から笑っていました。こんなに素直な人間がいるのか、と驚かされました。

国境付近で弟子に向かって自分はここだ、そう螺貝を吹いて、肉体的に中国政府の政治問題で国境を越えられない自分の想いを託す場面は辛すぎました。


それでも自分は前世の様に修行して人を救わねば、と僧院に入門する別れの時、リンポチェは人一倍努力して人より速く勉強を終え、帰ったら必ずおじさんの面倒をみる、と言い、おじさんはその頃はわたしは皺くちゃのじいさんだ、と答えます。


写真はその会話をしている時です。
この一瞬前、二人は別れを前に抱き合って泣いていた後の笑顔です。↑



今、スマホなどで繋がれば、
場所が離れても始終繋がり合える感じがするけれど、
それは本当の繋がりでしょうか。

例え二度と会えない、としても笑いあえる人に出逢い、過ごした時間、
それが本当の生きた時間であり、
至福の時と絆なんではないでしょうか。


だから、いつも二人は本氣で泣いて、本氣で腹を立てて、本氣で笑って、本氣で病気になって、どの顔も、どの時も精一杯生きてた。

どうか二人が笑顔で再び再開出来ますように。そして国境が開かれチベットの文化が受け継がれますように。
今まで犠牲になったお坊さんがたが報われますように。



チベット、ウルグイ自治区、モンゴル、等へ中国政府の弾圧が続いています。
人びとの文字と文化を踏みにじり、民族の自尊心を奪う政策は、本当に酷い。
多文化への理解と尊重がないのは本当に悲しいことです。


こう言った思考の先には単一的な世界しかありません。
また自らの文化を否定した中国がしていることが更に悲しい。文化大革命で自らの先人の知恵を破壊してしまったのだから。


いやそれだけでなく、
テレビの普及から始まりグローバル経済、スマホの普及により、
わたしが小学時代から危惧していた世界の単一化(世界中どこに行ってもマクドナルドがあり、スタバがあり、似たような商業施設モールがある様な世界)が進んできました。

それに伴い、ちょっとした違い、考え方、ファッション、学校に通うこと、人生の歩み方、なにもかもちょっと違う、違和感がある、それだけで攻撃や排除、仲間外れにしてしまうということが身近にないでしょうか。

つまりチベットかあ、と言う対岸の火事ではなく差別は今、あなたの隣で起こっているということだということです。


わたしたちがそれには烏合したくない、
多様性がある豊かな世界が望ましい、
とするならば、出来ることがあります。


それは自らを受け入れ、
他者を受け入れること、です。


なんだそれ、そんなこと大したではない、
思われるかもしれません。

しかしハチドリのひとしずくが何人も集まること、こそが一番世界を動かすのだと
わたしは感じます。
だから意思をちゃんともった大衆を権力者は恐れるのでしょう?
ハチドリのひとしずくをそれぞれが持ち始め、行動を始めるから。

始めたら、権力者の思う通りには簡単には動かせないじゃないですか。


そうでなければ、
こんなに脳を異常事態にする、
脳性疲労を招くようなスマホをインフラにしたりしなくはないでしょうか。
電車の中、街行く人を見てください。自分の目でモノを見る以上にスマホの画面に没頭している人が多い今、を。

一時的な快楽や利便性の為に、
子どもの身体と脳と心の発達、
お年寄りの健康寿命、
そして通常の人々から本当のふれあいを奪うようなスマホを促進するでしょうか。


電子マネーとて、確かに劇的な利便性と国境を越えた取引の速度を産み出しますが、本当の目的は庶民のお金の管理、です。
電子マネーは本当のへそくりや隠し財産、そして隠れた用途に使うことは出来なくなるのだから。

つまりプライバシー0、です。
そして税金がちゃんと取り立てられる。

だから中華人民共和国はいち早く電子マネー化してきたのではないでしょうか。

つまりはスマホも電子マネーも一言で言えば電子頭脳によるより強化な監視支配体制へ向かうことと同じです。


またそれは政府や大企業がしているだけではないのです。
昔はやんちゃをしていたら、
お節介なおじさん、おばさんが、
「ちょっと行儀悪いよ」と口頭で注意したものを、動画に撮影してSNSで晒す。

わたしはこれを見ると東ドイツの話の監視社会だった頃の話とリンクしてたまりません。
自分が密告されないよう、常に周りを見張っていた、わたしがされないよう、誰かを密告しないといけなかった、と話していたことを。それは大変精神的に委縮した圧縮した世の中だった、と。

一人一人がそんな社会の閉塞感を、監視される息苦しさを感じない為に、氣が付かないように、スマホは面白おかしく、現実から目を逸らす為にある、という氣すらしないでもありません。

 
話を戻しまして、

また 小さな小さな心根、
行動をすること、
これこそ自らを信頼し、
他者を信頼する行動に他なりません。

だって それが自分のたった小さなひとしずくを信じ、また仲間の小さなひとしずくを尊重出来ることだから。

一人では成し得ないことを”信じる”って、
きっといつか自分がやったことに続いてくれる人がいる、と見も知らぬ、けれど続いていくれる誰か、を信じてることだから。

また例え叶えられなかったとしても、
それでも。

自らの想いを、時に意見し、自分で行える範囲で行動で示した生き方は、自分にとって胸を張って生きたと言う人生なのではないでしょうか。
またそういったことこそ、自らの”在り方”を生き示した、と言える人生なのではないでしょうか。


それはまるで記事の最初の巨木のように、
そしてリンポチェと面倒をみた僧侶のように、
また幼くしてもリンポチェとしてやるべき道を進んだ少年の様に。

堂々と、自分が自分を知って、
自らのやるべき生を生きている姿と重なります。


マザーテレサを思い出してください。
彼女は死にゆく人を見送っただけ、です。
病を治す奇蹟を起こしたわけじゃない。
ただその虐げられてきた人の最期を、一人の尊重されるべく魂なのだ、と本人に思い出してもらえるよう、寄り添っただけ、です。
けれど、行為だけではなく、心が伴った行動を、ただ継続したこと、
があれだけの大きな活動へと繋がっていった。


何をしたか、より、
どう想い行動したか、が、
人の心をより打つ、響く、
働きをするのではないでしょうか。

次にクライアントさんの事例でお話ししていきたいと思います。

 
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