昨日は久しぶりに推理小説を読んで連日夜中過ぎまで読んでしまい、夏バテと重なって体調を悪くしてしまいました。
だから結婚したり、子どもが生まれてから仕事と家事を回すうえで関わるものは、
本で言えばエッセイとか学術書とか途切れ途切れでも読めても見失わないもの、
どこからでも読めて、世界観に没入しないもの、
自分がどっぷり浸らない者だけをを選ぶようになりました。
ドラマなんかも連続して見れないから、続きが気になるものは最初から見ない、とか。
芝居とか夜とか昼でも出かけられないから行かない、
を選んでいるうちに、自分の好きだったもの、がどんどん忘れてしまう、
不明になるという、そんなループがあるような気がします。
どんなに好きでも離れてしまった距離が遠すぎたり、時間が長すぎたら、ね…。
それはそうよね。
でもそれって悪いことのようにとられすぎるような気もしているのです。
独身の時代と違って、家族が出来ると、またはそもそも社会人になると、
自分だけの時間もお金も空間も少なくなる、それをどうとらえるか、もあるような気がして。
子育て中なんかは特に自分が没頭するもの、はちょっと休憩、であって二度と会えなくなるものじゃない。それに子育てや結婚や働く、という新しい場所で、自分の時間とは違うギフトが得られるのだ、そう思うのか、ただただ名もなき家事や育児や仕事の奴隷で疲弊する自分、と捉えるかでは大きく違うから。
それにアダルトチルドレンは”子育て”とか”仕事で踏ん張り時”とか”受験”とか
そうしたイベントごとでそうなるんだな、ではなく、
ずっと長く長く心の縛りや抑制によって自分を見失っているから、余計に苦しく感じられてしまったり、ひたすら犠牲になっている、という感覚が強くなるかもしれないので本当にそれは残念な話です。
で、うちも子どもが高校生になりまして。
もう親離れ、で日々寂しいです。
あの眠れない夜に、トイレすらほぼ行けない一日に、授乳しまくって貧血で
やっと夕方に自分自身がやっと口にしたのが立ったままの炊飯器に手を突っ込んで
ご飯をほうばった時に、永遠にほっと出来る時間、お茶を飲む時間、ラーメンとかなどは食べれない、そう思った子育てを終えた今、一言。
短かったな、です。
あっと言う間。
でもそれって子育てだけじゃなくて人生が。
もう中高年になりました、あっという間でした。
だから、わたしには夢があります。
もし自分の子どもが結婚して、
もし孫がわたしのところに来たとしたら、
孫をさしおいても子どもを大切にしてやろう、です。
子どもにはその短い短い子育ての時に、
こんなに可愛くて、
こんなに大切で、
こんなに二度とない表情と会話と時間を、言葉以上に通じ合える時間を、
子どもに味合わせてやりたい、のです。
安心と支えがある中で、本当の親子関係を築いて欲しいと願うのです。
初めての子育てで不安な親自身をずっと大きな安心感と、眠れる生理的余裕と、心の余裕を守れるようにしてやりたい。
だって本来は子どもってみんなで育てるもの、みんなのもの、未来からの預かり物です。
それは血のつながりを超えて、種族を超えて、小さな種、はじけたカマキリの子ども、オタマジャクシ、通りすがりのネコの子ども、隣の子ども、地域の子ども、同じ国の子ども、地球の反対側の子ども、すべてが、未来へつなぐもの。
子育てで辛いのは孤独だから。
子育てで孤独なのは孤立してるから。
辛いのはその人だけに背負わせるから。
みんなで育てたら、社会の中で育てたら、もっと親に心と体力の余裕と時間のゆとりがあったなら。
こんなに素敵で、こんなに可愛くて、こんなに尊い体験は、ないのに。
だから味わってほしい。
その時、自分の子どもと子どもの子ども(孫ね)が微笑みあってくれていたら、
わたしは安心して満足してこの世を終えることが出来る。
そしてそれは、自分の子どもだけでなく。
どうか多くの人々、生きとし生けるすべてのものが、
そうした子育てを、また育てられた体験を出来ますように。
そうして未来にあなたの種族がつなげていけますように。