心理学/脳科学/学問あれこれ心理療法ってどういうもの?

共依存のメカニズムと愚痴を”聞く”、というのと心理療法で”聴く”の違いとは

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何かイライラしたこと、気がかりなこと、それを話したらすっきりした、
なんて経験をお持ちの方はいらっしゃるかもしれません。

そもそも人は愚痴やらイライラしたこととかを除いても、
承認欲求を要因とした「自分の話を聞いて欲しい=自己アピール」
という欲求が高くあって当然なので
3人いたら3人が、こぞってわたしの話を聞いて欲しい状態なのだから。

だからこそ聞くよ、と言われたら嬉しいものです。
それに輪をかけて情動的に興奮した状況(イライラしてる、忘れられない何かを受けた、
ショック状態)などにあったなら尚更、話すことで共感してもらい、
精神的に鎮めたいという要求に駆られて当然な訳です。

例えば異性に振られてしまった
とか
失業した
とか
逆に良いことで
何かに合格した
とか

明らかに因果関係が明確である事象について
それを元に興奮してしまっている今の状況のことを
話して共感して欲しい。
これが一般的な話を聞く、ということです。

しかし傾聴を始めとした心理療法の聴く、とは
原因が分からない(けれど苦しい)、
なにか、に対して、
または
きっとこうに違いない、と
クライエントさんが思っていること、が、
本当にそれが要因(そう思うに至った始まり)なのか、
思考や言葉はいくらでも誤魔化せるので。再度その身体を含め
クライアントさんの全身に聴いてみよう、と試みること、です。

クライアントさんの多くは自分で作ったストーリーを事実と思っている方が
大半です。
重要なのは虐待を受けた、性被害にあった、という事実がない、と言っているのではないですよ。
でもその時の周りの反応や想い、何よりご本人の想い、はどうだったか。
本当などう思い、感じていたのか、その真実を再度、検証し直す、ということが
心理療法の”聴く”の一部なのです。

一例をあげてみましょう。
性的被害の加害者が身近な人間であった場合、
どんな状況においたとしても100%加害者が悪いのにも関わらず
わたしも悪かったから、とか、結果わたしは汚い、という
結論に至るストーリーを真実と思ってしまう。
またはそう思ってしまう、これは真実であってはいけません。
あなたは悪くないし、ましてや汚くなんて全くないから、です。
どんな被害に会おうが、誰がどんなことをしたとしても、
あなたの魂も身体も本当に汚すことが出来る存在はいません。

でもそう思わずにはいられない、それを否定できないのだとしたら、
あなたなりに何かそう思わざる得ない理由がある。
それは何故なのか、それを”聴き”に行くのです。
そうすることで、あなた客観的な視野と本当の想いを含んだストーリーを
改めて紡ぐことが出来るのです。
これが心理療法。

しかし、そのトラウマを産みだした状況、不健全な養育状況化のさなかに身に着けた処世術や対処法、
思考の癖は新しく学び直さなくてはいけない可能性が高いです。
なぜなら戦場での常識や対処法と平時での対処法は違うからです。
なぜ虐待サバイバーというか、それは戦場のような場所を生き抜いてきたからに
他なりません。あなたは悪くない、しかし、ベトナム兵が日常に帰れば全てオッケーでは
なかったように、トラウマから脱却するという、あなた自身も武装を解き、平和な時代の在り方を学ばなくてはなりません。

あなたの心と思考と身体は平穏な日常での過ごし方、新しい世界の歩き方、
相手との境界線を守ってれる人と、交流を基盤にしたコミニケーションを知る必要があるのです。
(わたしのセッションでは自己回帰セッションはこちらを含むトータルでの伴走をしている、
という区分けをしています。間際らしいかもしれませんが、傷ついた人にアドバイスをすることは出来ないので心理療法と分けて行っています)

また虐待を受けた人は成人しても、再度同じような依存関係の道に行ってしまい、
相手も変えてもいつの間にか昔と似たような関係性や被害を再度受けてしまうのは
間違えたストーリーと戦場状態の生き方を変えていないから、です。

幼少のみぎり被害を受けてしまったことから誘因されの無力感(これが元のストーリーです)が体内にあるとまたそれを繰り返される確率が高くなります。

なぜなら
先ず戦場(虐待)のコミニケーションを行っているとそうした依存関係とは無縁の人から本当の愛情表現を受けても理解出来ず自ら遠のいてしまったり、その人が去るように自ら仕向けてしまうから、です。あなたが仮に積極的にそうしなくても共依存特有のコミニケーションは共依存傾向の人にしか通じない為、周りに共依存の人たちしかいなくなります。本当の人間関係を築ける人は共依存の人はなんか話が通じないなあ、とそっとそこから去ってしまうから、です。

更に依存関係を作る人間で搾取する側のタイプの人間は
自分が依存可能なターゲットを常に探しています。
そうでなくては生きておれない、と感じているからです。
なのでとても必死です。

・依存側となり搾取するタイプの人(=内面はわたしは出来ない、やれないという無力感→結果(怒りの感情を持っている→結果他者を見下さしたりバカにしたりするが本当にバカにしているのは自分自身)

・依存される側のタイプの人
(=内面は駄目な人間だから奉仕しないと価値がない、罪深いわたしは奉仕しないと存在を許されない→結果自分のことは全く考えられなくなる。そうした自分を嫌っていたり怒っていたりするがこちらのタイプは耐えるタイプの為その感情を全て押し殺す
→結果、我慢→いい人であろうとしたり、オーバーワークなのに引き受けて「大丈夫大丈夫」と言う、または社会規範やルール、道徳などを持ち出しそれらを違反した人を断罪する)

この二つのタイプの人の出会いが共依存の始まりです。

依存側の人も結局は依存することで自分が自分自身への信頼感を失うので悲劇的な人間ではあるのですが、依存してその自分が出来ないことを支えてもらわないと生きていけないのでそれこそ血眼になって探しています。

だからそうした人の前に、
わたしは搾取(被害者)されて当然、またはどうせ逃げられない、
という自己犠牲が愛であると思ってる人がいたとしたらどうなるか。
互いが互いを引き寄せあい、新たな共依存関係が始まっていくのです。
同じことが繰り返されるのはそうしたメカニズムがあるからです。

わたし個人の例で言えば、
元夫が依存したい側、わたしがされて当然側の出逢いでした。
今でも覚えています。会社で改めてお互いの存在を認識した後に目が合った時のことを。
夫は階段を下りていく、わたしはその前に立っていた、その時のことを。
ああ、この人とくっついてしまう、スローモーションになった映像と動けない自分と。
その時はこの人に興味もないのにこんな風な映像になるのは恋にでも落ちたのだろうか、と解釈したのですが、心理療法経て過去のストーリーを手離した今、冷静に思い出すと解釈はこうなります。

「見つけた、おれの獲物」
というじっとしりた目つきだ、と凍り付いたわたし、

ということだったのだ、ということが。
もしもわたしがそこでこの本当の気持ちに気づいていたとしたら、
つまりは今ならばその時点で全力で無視をし、逃げ出して彼と関わることを辞めたでしょう。
もしそうだったなら、どんなにわたしの人生苦しくなかったかと思います。
でもそうだったとしたら、わたしは今この活動はしていない。
この様に事象は選択を一見間違えたと思えたとしてもそれはそれで何かを得ているものです。
これが人生の様々なことは無駄ではない、ということです。

そしてこれが繰り返す同じ事例、ぐるぐる回る同じ失敗から抜け出した螺旋階段の一歩のです。
それが出来て初めて心理療法の聴く、の段階となります。
依存している人は、「自分がしていたのは搾取で、自分が見なきゃいけなかったのは自分の弱さや辛さだったのだ、人に任せないで自分でやることが本当の勉強で、自分で歩くことの辛さ以上に歓びがあることをチャレンジしてみよう」、でしょうし、
依存されていた人は「自分がしていたことは良いこと、愛情というより、他人の成長へのチャンスを奪うことだったのだ。そして自分自身の気持ちもわからず他人の本当の感情に寄り添えることはないのだから先ず自分の本当の気持ちや好きなどに気づく為に自分自身を見つめ直そう」
などと思えることなのだとわたしは感じています。

ですから普通の話を聞く、や、よくいるエセカウンセラーの否定しないであなたの話を聞く、
というレベルでは到達しない段階に行けているのか、というのが心理療法が機能しているかしていないかの目安とも言えるでしょう。
ですから、あなたの話をききます、と言葉では同じように聞こえるかもしれませんが、
内容と重みが違います。
本当に人生を進行させてたいのだとしたら、あなたの本当の真実が見つかる聴き方を試してみるのもよいのかもしれません。

心理療法の聴く、とは山が”ある”がごとし、そういう存在感に印象は近い

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