どんな物事、選択に100%正しい答えはありません。
生き方、幸せに絶対の正しい答え、完璧な万人に当てはまるモデルはありません。
ない、のです。
もし誰もがみて分かるたった一つの正解は、
資格試験や学校、会社などでするペーパーテストの中にしかありません。
または固定観念や偏った信念の中にはあるのかもしれません。
そもそも生きていく上で100%の答えが、
もしあるなら誰も迷わないのではないでしょうか。
迷うのはどちらも一長一短があり決めらないからでしょう?
なのに、わたしたちはあまりに絶対正解があると信じすぎている。
だから、
わたしはいつも間違える、
良かったのかな、正しかったのかな、
自分の選択に自信がない、と思い、自分の責め
自分は能力(見極められない)がない、と自信を失う。
確かに短い短期間で見ると、
そこに就職したけど、他の会社の方が、とか
その相手とは結婚しなかった方が、
などと辛い経験をしたりしたかもしれません。
選択を違っていたら…
歴史的ifの問いかけですね。
あの時、あれが。
でも自分らしく生きる、という価値で見ると
どんな選択をしようが、どの環境に居ようが
それは関係ないものです。
あの辛い体験があったから、
あの葛藤から、
”わたしの大切なものに気付けた”
と、出来たなら、です。
どこに行こうが、どの道を通ろうが、
おのずと最終的に行き着く先はそこ、であり、
だからだったんだな、となる。
それが自分を生きてきた証だと思います。
短期間の損益、で考えたらいかんですよ。
成果っていうのかな。
(成果もあったらあったでありがたい、けどね)
また絶対の正解がある、正義がある、
と、信じないとね、相手や自分を批判できないでしょう?
批判する、ジャッジをする、とは、
間違えている、と裁くことだから。
絶対の価値判断、絶対正義、つまりは”法”に
照らし合わせているのだから。
生きることにルール(絶対)はないです。
また倫理観や文化に優劣はないし、
また性別、年齢、人種、家柄、障害、病気、宗教、社会的立場、趣味嗜好で人権や価値を奪われたらいけないと思います。
(それぞれの特性を生かす為、その人らしい能力などを見出すことは必要ですが)
時代ごと、文化ごとの規範、いわゆる道徳とは、その継承者へ、それはこうした方が良かったよ、と先人が身に染みて思ったことを後輩に残した忠告であって総称であって法ではない。
指針には裁く機能はありません。
法のみが裁きを下します。
しかし自分らしく生きる、とは、
その選択を正しいか正しくないか、
と言う裁きでも、良い悪いではなく、
また他人から言われたからでなく
わたしらしい、
つまりは
今の自分に相応しいモノ、
を主体的に選択する
と言うことです。
主体的に、とは自分にとり都合の良い部分だけ見ない(甘やかさない)
きちんと全て全体をヒステリックにならず、冷静に見て、感じて、
わたしらしいのは、これだ、と選択する。
更に注意が必要なのは
今のわたし、です。
20歳の頃の化粧法やファッションは
その頃のもの、永遠ではありません。
あの頃に似合っていても、今が違うなら、臨機応変に。
あのメイクがわたしらしい、いえ、外見も中身も変わります。
わたしがセッションでお出しするクライアントの自分の軸、というものは変わりません。
一生を通じ訴求するものだから。
例えば”尊重”ならば、
今のわたしをよりよく尊重出来るメイクとファッションで
やり方、は変化しなくてはならないのです。
やり方に固執するのは、自分らしく生きるではありません。
今のわたし、に相応しいもの、を常に変化を受け入れ選択していかなくては。
その際、状況、体力、時間の制約、家族が出来た、介護が、
など人生の階段はそれぞれに違う状況を投げかけてきます。
どうしても今までのペースではやりきれない、結果、迷惑をかける人も出てくるかもしれません。しかしそうなったなら誠意を込めて状況を説明し、心から謝り、頼むことです。
勇気が必要ですが。
頼られるより、頼る方が人によりより勇気が必要ですよね。
過去に断られたことの傷、
また断られたら価値がない、と思い込んでいる為、踏み出すことが
とても怖い。
しかし人生、時に誰かに頼られ、時に頼る。
その繰り返しなのだから。
誰もがずっと強くはなく、調子が良くはなく、
弱くもなり、下り坂もある。
そしてずっと下り坂でも弱いままでない。
迷惑をかける時期もあるでしょう。
そして誰かの面倒を見る時期もあるでしょう。
そう、だいたい誰しもおしめを変えてもらったあの頃、
全身で頼っているじゃないですか。
そうして今度は年を重ねた親をおぶえばいい。
こうして頼り頼られ、シーソーの様にぎっこんばったん
動きがある、これが動いた人生であり、
生き詰まっていない、生きづらくない人生なんですよ。
またね、人生は過ちもあるもんです。
誰しもが選択を間違えていることはある。
しかしレジリエンス(復活する力)がある人は、
間違えないわけではなく、間違えたら修正する力を持っているだけです。
修正する、また、失敗から学ぶこと、発見できること”ああ、わたしの大切なものはこれだった(これが自分軸)”が出来る人です。
前にも書いたかもしれませんが、
子どもに結婚式前日でもわたしらしい相手ではない結婚なら取りやめろ、と言っています。
お金がもったいない、
直前になんて恥をかく、
相手に親戚出席者に迷惑がかかる、
逃げられたと勘違いされてみっともない、
などと一切思わずやめろ、
そうなったら全てわたしが一緒に笑われて、迷惑をかけた人たちには謝り倒すから、やめる勇気を持て、と言っています。
自分のミスを認める力を持て、ともね。
そりゃ遠くから来る方や予定をしていた人、式場、迷惑の嵐ですから出来たら見極めを早く出来たなら良かったです、が、出来なかったなら誠実に説明し謝ることです。
なぜなら自分にとり相応しい相手ではない暮らしは償えないものをもたらすからです。
幸せを失い、生きる気力をなくし、ストレスから健康を手放す…。
結婚を直前で取りやめるなんてなんて可哀想な子、と周りに言われるより本人は辛いからです。しかしそう言われたり同情も嫌なら、そう言ってくる人に、
母がやめろと取り壊したの、
鬼の様なお母さんなんだ、
わたしはそうしたくなかった…
と嘘をつけ、わたしを悪者にしろと言うと思います。こう言うのはついてよい嘘。
そんな下手な同情や詮索をしてくる人は大切な人ではないから、相手が興味本位でこちらを軽く扱うならひょいっと闘牛士のようにかわすのがスマートなやり方です。
だいたい噂好きな人はまた別のネタがあればそちらに行きます。
その代償に比べたら傷は浅い。
今なら、子どもの為なら、
それで嘲笑されることなど屁でもない。
(迷惑をかけた人へはつらいですが…)
間違えていたら”謝る”。
困ったら”助けて”と言う。
それが誠実な態度だと感じます。
不倫がどうかというのは、パートナー、子どもに嘘をつき自分に都合の良いことだけをとるから、です。誰にも誠実ではないからです。
結婚しても他に好きな人が出来た、それは悪いことではない。しかし黙って逢瀬を重ねてそれを楽しみ、家族に嘘を重ねる。自分にも、です。
事象には明確な思考の整理が必要です。
全て一つにまとめずにパーツを分けて考える必要性があるでしょう。結婚後も人を好きになること、は悪いことか、
違うと思います。
しかし嘘を周囲につき不誠実はあなたらしいのか、ということです。
そして仮に誠実な態度だからと言って、子どもからしたらショックでしょう。
だから真っ正直に言うことがいいのか、数年までは我慢する、好きになった時を数年ずらすなど、配慮しながらというのは立場により、また関係性によりあると思います。
しかし本当の愛ならば二人できちんと説明また配慮が出来るのではないでしょうか。
本当の愛は精神的な成長を促進するものだから、です。(男同士、女性同士、性別を超えた愛、なども含む、真実の愛ならば、です)
”本音は誰も傷つけない”
とはそうしたことだと感じます。
真っ正直にそのままの感情を素のままぶつけること
じゃないですよ。



