人は成長しなくてはいけない、と言うより成長することが歓びなんです。
その命の歓びです。
しかし生きづらい人は、それはしんどいよ、と言う。やれない、と言う。わたしには無理だ、と言う。確かにしんどいのは生きる力を失っていたりするから、と言うのもあるけど、勘違いしてる部分もある。
みんなみたいにしなければ!
みんなみたいにどうして出来ないの?
または、ああすることが人として当然だからせねばならない。
これは誰かの期待や周りに合わせようと焦っていたり、世の中の常識を守る番人になってるだけ。つまりは裁いています。
何かの基準に自分を。
で、こうした人は自分だけでなく相手も裁いてるから、それは苦しいです。
本当の成長は、自分の望みとして、やることです。目の前に、ほかに、尊敬する人や感銘を受ける人がいたとしたら、
あんな風になりたい、も良いでしょう。
ああしなきゃ、じゃないですよ。
なんて大きい人心の人だろう、あんな風になりたい、です。少しでも自分なりに近づきたい。
ポイントは自分が純粋にすごいなー、と感銘を受け、素直にあんな風になれたら、と思うなら、です。感銘がないなら良くないでしょうね。そうねえ、尊敬する、敬愛したくなる人、なら良いというか。
あと心の底から、です。
その人はあなたの指針することが大切なのです。その人をルールにしたらいけない。これはアダルトチルドレンに重要なこと。
指針とは灯台のようなもの。
あの光に向かう、というもの。
けれどルール(または法)にしたら縛られるものです。
憧れの人への想いを指針として表現したら、
ああ言う、優しい人(仮)になりたい、あんな風に他人に接せる為にはどうしたらいいんだろう。今のわたしに出来ることはなんだろう。
という発想になるでしょう。
しかしルールとして憧れの人への想いをやろうとしたら、
あの人はあんなことしてる、真似しよう。これを持っていた、真似をしよう。これをやっていた真似をしよう。あの人はこうした、わたしもしないといけない。
という風になるはずです。
違いは明白。
だからわたしのブログでのカテゴリーは指針、となっています。
すべきルール、こうすべきだ、と裁く決まりではなく、あくまで目標とする、また人生を迷うことなく進む目指すべき光。それはセッションでお渡しする自分の軸の言語化したものも同じこと。それに向かい努力すべき、指針。あなたがあなたに望み、そして世界に広げていきたい概念です。
こんな世界を広げていきたい、
だってこんな世の中なら素晴らしくないか
と、あなたが世の中に問いたい想いなのですから。
しかし強制力も罰則もありません。それは指針だからです。
法ではない(今Yahoo!のコメントやらSNSでのものは裁き、こんなことすべきではない、という法的なジャッジです)それでは人は動けなくなってしまう。
例えば博愛、平等、自由、こんな軸の人ならば、そのような世界がわたしは素晴らしいと世に知らせたい、ということです。
だから自分からまず有言実行、体現していかなくては。そうした時にその姿に憧れてくれる人が出てくるよう、または、それをいいな、と思う人に響くよう、自分を高めていかなくてはいけません。
ここに罰則も強制力もないのです。
しないと人から陰口をたたかれる、罰を受けるからする、ではなく、あの人なんだか自由そうだから、わたしもしてみたい、という自主性的な動きが”指針”です。
そう、繰り返しますが、ジャッジで動くのは受け身。怖いから仕方なくやる、のだから。それでは意味がない。あなたが自主的に動いてなんぼ、です。自己回帰セッションはそうして欲しいと思ってしております。終わったら、あなたが動く、んですよ。
してくれない病は終わりです。
してくれない病は期待を背負った人が更に苦しむ病気です。
期待とは他人が背負わせることもありますが、自ら背負う場合もあります。自ら背負う場合とは、自分に自信がないから絶対正義と思われるルールの番人になってしまうことです。人を殺さない、とか、悪口を言わない、とか。後、自分の考える定義では、妻はこうあるべき、夫は、子どもは、友達は、上司は、親とはこうあるべき、とか学校の先生はこうあるべき、とか。
過去の記事でも何度も繰り返していますが、自信は自分が主体的に動かなくては手に入れらません。やってみて失敗して、試行錯誤して、その足掻いた先にしか生まれません。
やってみた結果=成功=自信
ではなく、
やってきた経過+努力+失敗=自信
です。
親などからの期待、は、心理セラピーで癒すことで気づくことができますが、自分で自信がないから背負った正義マンのお面は自らの行動でしか置くことはできません。
さてどうしましょうか。
やりますか、それともやりませんか。
あなたに責任はあります。
それが大人ですから。チルドレンを脱ぎ捨てて単なるアダルト、大人になりましょうよ。
