人は転ぶことで、学ぶことが出来る

あらたのセッションに関して
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今、多様化の時代、と言われていますが本当でしょうか。
わたしには疑問です。

差別はいけない
いじめはいけない
怪我はいけない
病気はいけない
老いはいけない
死はいけない

倫理的なものから、ネガティブなもの、そういったもの、に関して
いけない、いけない、いけない。

これは自由な世界でしょうか。
わたしはテレビやネットのニュースを見ると息が詰まります。
だめだ、いけない、あれはこうだ、だからダメだった、謝れ、云々。

わたしは自分自身を振り返って思います。
わたしはそこまでひと様のことを糾弾出来るほど善人だろうか。
わたしはそこまでその人たちを悪いと断罪出来るほど悪いことをしてこなかったろうか。
わたしはですが、そんな他者を断罪出来るほど善人ではありません。それなりに悪いこともたまに良いこともしてきたただの市民の一人だから。

 

本当の多様性のある社会とは、時に失敗していい、時に転んでいい、と言うことだと思います。
何かをしてしまった時、なんて酷いんだ!と断罪することではなく、そうか、してしまったのか。
それは何があなたをそうさせたんだろうか、一緒に考えていかないか。そう呼びかける余裕がある社会なのだとわたしは思います。

そうですね、甘い、と思う方がいるかもしれない。あの事故で人の命がなくなったのに。謝ったってその人は戻らない…それは本当に筆舌出来ることではありません。だからそれを当事者の方々をすべて赦せと言っているのではありません。
しかしあまりに今猫も杓子も正義の倫理コンプライアンスを掲げその剣ですべてを断罪してはいないでしょうか。あれもこれもいけない、いけない、と。

また合わせてBOPやら効率化やら数字評価やら人間性を失っているような気がしてなりません。確かに数字での得点は誰が評価しても平等、なものになるのかもしれません。しかし数字で表せないものに対する切り捨て、評価の単一化による物の単一化がより一層社会を無機質な面白みのないものに、息苦しい世の中に変えてしまった感じがしてなりません。

わたしは昔のフィギアスケートが好きでした。選手の演技の多様性は観ていてとても楽しかった。ジャンプが得意な人、表現が得意な人、ショートがキレキレの人、演技はなんだけどエキジビションは何をしでかすかわからず観客を驚かせてくれる人、それぞれの得意技を持って全体の大会の満足度が高かったです。今は同じ点数で競いますから多様性はあまり。なのでだんだん飽きてきて今あまり見ることはなくなってしまいました。点数制にしたようがジャッジに贔屓が出ない、そういった趣旨でそうなっていったのだとは思います。
でも面白さもなくなってしまった。

今の社会は全体がそうなっている気がしてなりません。
悪意があってしてきたのではないでしょう。教育も先生が自分勝手にする授業だと差が激しいから(わたしの中学の国語教師は辞書の引き方だけで一年通しました…最低は授業でしたよね、そんなの一杯あった。そういうことをなくそう、だったのかと思います)でもね、なんだか今はそれを守ること、の方ばかりが表立ってしまった感があるんですよ、今。時代の変わり目だからか行きつくところへきてもう息も出来ない息苦しさというか。子どもの頃ソドムとゴムラが享楽の都で神に滅ばされた、という話を聞いた時になんでなんだろう、楽しんだ人が滅ぼされた、ってどういうことだろう、と思っていたのですが、先日、ああ、これを比喩していたのではないか、と思ったのです。享楽の都というものは、実はネガティブな物を排除した世界のことを比喩しているのではないか、と。死や病気、老い、悲しみを否定した社会のことではないか、と。(※実際の旧約聖書のソドムのエピソードとは違いますが※)

みんな明るく元気で仲良く健康で生き生きと若々しく仲良く!!がスローガンな世界
これこそ享楽の都、なのではないか、と。

そういってネガティブな老い、病気、苛め、差別、死をないものとしている。
本当の多様性って、ネガティブや病気やいじめを受け入れることではないでしょうか。
だって誰しも人は老いて時に病になり死を迎えます。差別もある種の側面から見たら、自分と他者、自分たちと仲間以外を認知した自己保身の一つでもあると言えるでしょう?そこから差別は生まれてきた。そもそも社会生活の営む我々は自己と他者との違いを意識しているのだから、差別を完全にしない人は存在しないですよ。だから故に人とは差別(=自己や仲間を保身)をついしてしまうものだ、だからこそつい保身してしまう(=差別してしまう)自分のままでいいのか、と差別してしまう自分を受け入れていくことが必要なのではないでしょうか。あ、今自分は差別した、と意識できなくてどうして、次の思考、このまま差別し続けるの?いやいや心を割って話してみよう、とステップを踏むことで初めて自分の中の差別と向き合って、それを昇華してこと、これが真の人を痛めるまでの差別が少なくなる本当の社会の在り方への道ではないでしょうか。
しかし今していること、それは差別はいけない!違反した他者を責めることです。
本当にやるべこと、それは己の中を差別と向き合い受け入れることこそがやるべきことなのではないでしょうか。

これはすべてのネガティブなことに当てはまると思います。
例えば病気がいけないのでしょうか。いえ、いけなくないです。病気になってしまったことが悪いのではなく、病気は今までの生き方では無理があったと教えてくれる貴重な機会です。そこに気づき、その病を受け入れること、それが本当の治癒への道だと思います。
いけないのは病気を敵視し、打ち勝つぞ、と敵対することです。それは違反した人を責めることと同じです。またなってしまった自分を責めることです。病の自分を責めないでください。病気で辛いのに、なぜ責めるのですか。それではあなたがあまりに可哀そうです。
また今までの生き方に無理があった、ことは悪いことでしょうか。わたしは悪いとは思わない。それだけその人は頑張ってきたという証でもある。でもその頑張りは方向ややり方が違っていた、ということ。そしてそれを今こそ変えようよ、ということ。違ったり間違えたことは悪いこと、ではない。失敗も悪いことじゃない。

悪い、のは失敗や病気を認めなかったりしたことを責めたりすること。
それを気づいて受け入れて変えていかない、こと。

老いも同じく。昔から言われています。若い人は通ってきた道、老いの人はこれから行く道、若いからあほだと言ってもかつての自分も同じで、老いによって弱くなったと言っても、それはこれから行く道です。死がなければ地球上に生命が溢れて新しい命が入るスペースがなくなってしまいます。死とは新しい命へ自分の命を受け渡すバトンタッチであると感じます。

だから、今、”いけない”、が高じて、今、子どもが転べません。
転んだら怪我をするからです。一つのシミ、一つのひっかき傷があれば先生の責任になるからです。
子どもは親の持ってる物だから、傷一つ付けたらいけない、そんな風に感じます。

だから柔らかいボールでふわふわした地面でしか子どもは遊べません。
失敗はいけないのです。いけない、いけない、の連呼の行きついた先のような気がしてなりません。
本当に苦しくて仕方ない。転ばないでどうやって次は転ばないバランスを彼らは学べるのでしょう。どうやって転んだって立ち上がったらいいんだよ、と転ぶ勇気を学ぶことが出来るのでしょう。
いいえ、子どもは子ども本体が生きる自主性のある命です。彼らには転ぶ権利があり、転んで学ぶ必要があります。彼らの命の責任は彼らに返さねばなりません。
それをして初めて本当に子どもを尊重していると言えるのではないでしょうか。

今、時代の過渡期だからそうしたものが極まっていて息苦しくてたまりません。そしてそれを見るのが辛い。だからちょっと文章がうまくまとまりませんがクライアントさんも失敗を恐れること、や、倫理的コンプライアンスの護り手のようになってる方がいます。
繰り返しますが倫理的にあろうとすること、それは悪いことではありません。しかし、いけない、と禁止するのではなく、己の中のそうした負の部分を認めることこそ、本当の倫理です。

失敗は大切な経験です。
それを否定したら成長は出来ません。効率化が良いとされているから一回で成功をすることをよしとするのはやめてください。効率化はあくまでほんの小さな部分です。失敗を繰り返した先にあるもので、最初からあるわけではない。あなたの人生を効率化するのはあなた自身が数多くの失敗をした先にくるものです。失敗こそ成功の元です。失敗をした自分、ある意味かっこ悪い自分から逃げず受け入れないでどうして自分を受け入れることが出来るのでしょうか。そう失敗をすることを恐れてチャレンジしないこと、失敗をしっかり受け入れないこと、これがいけないこと、です。成功するより数々の失敗や負の部分の自分を受け入れるから心が大きく優しくなれるのだから。失敗はいけないことではありません。失敗してもそれを無視したりしてそこから学ばないこと、または失敗を無視すること、それがいけないことです。転んだら起き上がりなさい、勇気を持って。何度も何度も転んだら、転び方がうまくなって怪我も軽くなっていく。その為に転ぶ=失敗は人生の宝物なんですよ。忘れないで。