遅らばせながら、
性格リフォームカウンセラーと名乗る心屋という方が、つい子どもに暴力を振るってしまう、という親御さんの悩みに対し、
虐待されるために生まれてきたから良いのだ、とブログに書かれたと聞いた。
虐待されるために産まれてきたから
(暴力行為を)してもいい
してはいけない、と正義ばかりを振りかざすから人は不幸になる。責めるばかりが良いことではない、と。
これは どういうことか。
単なる詭弁でしかない。
虐待が良くないのは、
理不尽だから、である。
理不尽とはどういうことか。
行為の対象が因果関係なく、行為者の投影によって行われるということだ。
平たく言えば、仕事の苛立ち、夫婦間のストレス、悩んでいる人間関係、自分自身の幼少期の心の傷からくる吐き出せない感情を、子どもを使って発散している、つまり八つ当たりしているから、ということだ。
仕事の悩みは職場で、
夫婦のすれ違いは夫婦間で、
その対象者には言えないから、
⑴家庭という自分が素になりやすい環境の中にいる、弱い立場の子どもに向けられやすいこと、
また、
⑵自分の幼少期の傷は、子どもを見ることでプレイバックしやすいから、
が家庭内で虐待構造の大きな要因である。
叱る、躾は、
これが他人が大切にしていた皿を割った
約束を忘れて遊び呆けた、
などで叱られること、これは子ども自身も悪いことをしたから仕方ない、と心から納得出来る範囲は※教育として必要なのだから。
(※頭を軽くコツン、までを虐待と騒ぐのはハラスメントハラスメント←◯◯ハラスメントだ、と過剰に騒ぐケース)
故に虐待の定義として、
子どもには根本原因はないということだ。
虐待者の心の中にある。
つまり虐待とは一方的な暴力であり、
かつ保護者と言う味方から受けるのだから完全な裏切りである。
精神的な殺人であり、ひどい場合は…。
巡り巡って、つまりは虐待される為に生を受ける生命はない、ということだ。
例えば牧場に誕生した子豚、それは人間が勝手に定義しただけで、屠殺の瞬間まで、その命は、死の瞬間まで生きる為に産まれてきたのであって食肉になる為に産まれてきたのではない。
また一方で、
わたしが心屋さんに言いたいのは、
心の本心から暴力や暴言を吐きたい人も、またいない、ということだ。
毒親は心の中で、誰か止めてくれ、と血の涙を流しながら暴力を振るっている。
本人が氣がついているか、いないか、は別にして。だから心屋さんに助けを求めた相談者さんは、そんな自分を止めて欲しい、解放して欲しいと願っていると信じたい。
相談者さんは、自分自身の存在を肯定されいが、行為を肯定されたい訳ではないのではないか。
しかし彼がしたことは行為の肯定で、
存在ではない。
だから心屋さん。
暴力振るってもいいよ、
と言われても、その人は救われない。
暴力を振るって、心の奥底で自分自身を責め続けてきた人は、表面的に非難されず、言われた一瞬、楽になった感じはするかもしれない。
あれー?パッカーん、
そっかーわたしは悪くないんだ、
楽になりました!
しかし、その人の真の願いはなんだ。
その振り上げた拳を本当は下ろしたいのではないのか。下ろしたくても下ろせない心の叫びを止めたいのではないのか。
その上げた手を横に広げ、本当は自分と子どもを抱きしめたい、それが願いではないのか。ならば、そこで終わりで良いのか。
カウンセラーと名乗るならば、クライエントの辛い記憶へ共に行き、クライエントが対峙できるよう、見守り勇氣づけるのが仕事の筈だ、とわたしは思う。
それが真の勇氣だと。
どんなに辛い場面でも目を背けることなく受容する、それがカウンセラーの愛だ。
ただし、カウンセラー本人にそう言う強い覚悟がないと過去の凄惨な場に共に行くのは難しい。彼はその手間で引き返してる。
クライエントを孤独と悲鳴の中に置き去りにしている。
心理療法をやる者ならば共にその場に居なくては。
居続けなくては。
感じ続けなくては。
クライエントが自ら立ち上がり、歩き出す時まで。
因みに心屋式はどんなものか、
ざっとブログやホームページを読んだり、
わたしのクライアントさんからセッションを受けた体験、及び本人が公開カウンセリングしている映像から総称してみた。NLPの中のゲシュタルト療法を自己流にアレンジされた??
わたしが実践しているゲシュタルト療法とはかなり違う。
ゲシュタルト療法に関して思うに、
セラピークロージングのタイミングと、
その後の経過観測が一番重要だと わたし個人は思っている。またパールズもそう言っている。
様々な心の葛藤をぶちまけた後に統合していくのがゲシュタルト療法の一番大切な過程だからだ。いや心理療法全てに言えることでもありますが。アプローチ違えど本質と根本は同じだから。
しかし心屋式や、下手な似たような根本を理解していない他の人達もセッションしたが故に、その人があらぬ方向に行ってしまうのは潜在意識の扉を開く刺激だけを与えて(心屋さん的には魔法の言葉。他では公開処刑やら)あとはよろしく、というのは外科手術で切ったは良いが、その後は放置よろしく、だから。
また他のやり方は、あなたはそれで良い、などと耳触りの良い、口先だけの甘い文言で傷の蓋をしてしまう。要因はそのままに…。
つまりは、そこからこそがカウンセラー能力を本領を発揮し、徹底的に寄り添う必要があるはずなのに。
クライエントはね、本音が怖いので逃げます。近づけば近づく程に、逃げる。本当に一緒にその場に相対した施術者ならば、痛いほどそれを知っている。鼓舞しても、なんとしても勇氣づけ、本人が本音と対峙できるようしなければいけない。
そこを引き返したり誤魔化したりしてきたから、その人は苦しんできたのだから。
なぜならそこにはクライエントの歓びも悲しみも感情の全てがあるから。
その人の生きる活力が全てあるから。
ゲシュタルトは特に潜在意識の蓋を開く荒技でもあるので一回一回、セッションを安全な領域を見極め終了しないと余計に潜在意識に余計なものが入ってしまい本来の自分から遠ざかる要因にもなりかねない。
あれではNLP※の中でマニュアルにされたゲシュタルト療法という狭い範囲というか、なんとも わたしにはよくわからない。それとも、アハ体験(瞑想の先にある氣づきの瞬間を、アハ体験とゲシュタルトでは言う)を真似して、ぱっかーん、と表現しているのか?
そして本来のゲシュタルト療法は、潜在意識へアプローチする為、刺激を与える、と書いたが、刺激以上に重要なのは、その後の心の各部位を身体を含んで統合し、己を全体的に捉えるように再結合していくこと、それが最重要な治癒をもたらす。こちらをして、初めて潜在意識は無事に整えられ、安全にセッションを終了することが可能になる。
つまりは魔法の言葉以上にこちらが重要であり、癒し、とはこれを持って完結に至る。
※当時の効果がある天才セラピスト3人の手法をマニュアル化して体系化したのを元にした手法。ゲシュタルト療法のパールズもモデルにされた一人。
また魔法の言葉、というものを心理セラピストとして読み解いてみよう。
カウンセラーの側から出すのではなく、最終的には本人から出すことが肝心。それが自主性の始まりでもあるので、セッション終了後のクライエントさんにとって、とても大切だからだ。
その自主性の芽生えをカウンセラーが行なってしまったら依存関係にはならないか。
いや、なっているように見受けられる。
これは臨床心理では一番氣をつけねばならないことだ。その禁忌をしている。
そして本来のカウンセリングはカウンセラーが主役ではなくクライエントが主役である、と言うことが絶対条件でなければならない。が、わたしの主観だが、どうも心屋さん始め、その名を名乗る方々はカウンセラーが主役的に見えて仕方ない。
それはカウンセラー自体が承認欲求の塊で全く持って、ご自身が先ずは治癒される対象者である、と公言されているようなものではないのか。
最後に。
わたしがセッションさせて頂いた虐待サバイバーの人のセッションでは、いつも寂しげな親御さん、そしてその更に親御さんまでセッション対象者として出てくる場合もある。
そこまでしないと代々引き継がれてきた悲しい負の連鎖は止まらない。
つまり虐待してしまっている人、
あなたも犠牲者である可能性が強い。
どうかあなたの心の悲鳴に氣づいて欲しい。もし自分で止められないならば、適切なセラピストの門を叩いて欲しい。
あなただって止められる。
子どもと笑い合うことが、出来る。
勇氣を持って、あなたの傷を見に行こう。
あなた自身を救いに行こう。
そして依存を脱し、
あなたが自身の力であなたの人生を自ら意思を持って方向を定め歩いていくこと。
それが本当のバンジーだ。
その2へ続く

