親を早く亡くされた方は寂しいし、親が長生きしたら老いていく親と向き合い介護が出てきます。
どちらもそれぞれに、良いこと辛さが、ある。親の行き先、いや家族、そして人生とはそういうもの、どの道を通ったから、あの人は…はなく俯瞰してみればそれぞれなのだ、と思うもの。
さて、そろそろ今年も終わりに近づいてきました。
振り返るチャンスの多い年の瀬、時のことも考えてみましょう。
年をとると時が過ぎるのが早く感じるのは実は身体と脳の認知が関わっています。
わたしの一言コーナーでちょっと書いていたサブモダリティーの仲間ですね。
時間の体感が早く感じる作業は以下になります。
・ルーティンワーク
子ども時代より大人になると時間が短く感じるのは初めての体験が減り生活がマンネリ化するから
・スマホいじり
体を動かさず(代謝が低い)スマホに集中して時間の経過に注意がいかない
・パソコン作業
スマホもそうだがパソコンで様々な作業(メールのやり取り、まったく違う書類作成を複数していても)をしていても認知的には一つの作業と受けとってしまうので経験体験が減る(スマホも同様)マンネリ化と同様時間が加速して感じられてしまう
・忙しない日々
振り返る時間がないと、記憶に留めておけず、経験体験が少ないと認知されてしまう為
例「昨日の夕飯、何食べたっけ?」
・乱雑な部屋、また薄暗い部屋での作業
知覚する情報量が少ないほど時間の流れが速くなってしまう
汚く暗いと視野が狭くなるため
・マルチタスク
複数のことがらに注意を向けているため早く感じてしまう
例「友人と話しながら待つアトラクションは待ち時間が短い」
まとめると
身体の代謝が低く情報量を認知する力の低下が時間経過のスピードの体感を促進してしまう
と言えると思います。
確かに時を数値化したら数量は変わらないかもしれません。
しかし人生なんてあっという間、もっと大切にしませんか。
50年の人生だとしたら時間の長さは変えられない。それは事実です。
でも充実度はあなたの意志と実行によって変えられる部分なのだから。
昔、熱心にやっていた部活で大会に出場した日のあの午後の試合の時間や山の登って食べたおにぎりの味、一つのプロジェクトをみんなで立ち上げてそれに向けて議論して、走り回った日々、恋人との眺めた風景や親友の何気ない心からの一言、などはなぜか重量感と臨場感を持って思い出せるはずです。
それは言いかえれば、
身体も動かし他為に身体の代謝が高く、共に居た仲間と語り合った、初めてのことでいっぱい調べて考えた、仲間と共に共有した試合に勝った嬉しい!負けた悔しい!という感情、本当に心から愛し合った恋人と共有した想い、友人や師や本などから感銘を受けた、などの感情の情報量は計り知れないぐらい多い、だからこそ、なのです。
つまり真の幸せ、さいわい、とは、
同じ時間をどう過ごしたか、というあなたの心掛け一つで手に入れられることだとも言えるのです。
感情を感じること、身体を使うこと、五感を感じること、ここにしか真の幸福はありません。
あなたという個人が満たされた時間がどれだけ人生にあったのか、それが質であり、充実度なのだから。
ただアダルトチルドレンや名称はなんでもよいのですが、
適切な見本と導きがなく共感されることなく育ってしまった生きずらいあなたや、
虐待されてしまったあなたや、
ヤングケアラーなどであなたの人生を他人に利用されてしまったあなたは、
感情に触れること、それ自体が過去の思い出すと命に関わるような苛烈な想いや
誰からも共感されずたった一人で泣いているあなたと出逢うことだから避けざる得なくて
本当の幸せにもたどり着けない。
過去に辛い体験をしている人ほど幸せになれない、それはどうか。
そんなことが許されていいのか、そう、わたしは思う。
もしあなたがその繰り返される負のループから脱出したいなら、
どうか覚悟を決めてください。あなたを幸せにする、と覚悟してください。
確かに過酷で苛烈な過去なのです。
でもそれはその思い出したくもない親や状況を再び体感する、ということをではなく、
その状況にいるあなた自身をそこから救い出す、
ということをするのだ、と思っていただきたい。
そうしたら、あなたは感情を感じることが出来るようになるのです。
そして感じて欲しい、本当の幸せを、あなたにこそ味わってほしい。
あなたにこそ、幸せになって欲しいし、幸せになる権利がある。
人生は短いです、わたし自身が中年になってしみじみ感じます。
だからこそ、そうした時間を一つでも、一分でも持って頂きたいな、とわたしは思います。
それが人生を大切に、ひいては自分を大切にすることだと。
難しく考えることはありません。
スマホを置き、
一つの物事に(シングルタスク)集中して身体を動かすこと、
五感を働かせること、
自分の感情を感じること
これが時を味わえる過ごし方、です。
例えば、お気に入りの公園か何かに、一人でも暖かい飲み物を持って散歩してその時にピンときた場所でそれを飲みながら風景を楽しむ、こんなことがそうした時間なのです。
アダルトチルドレンのあなたにもそうしたことなら出来る筈です。
そうしたことから始めてみましょう。
ただ今、観察していると犬の散歩にもそうした時間にもスマホを持っていたり歩きながら音楽を聴いていたりする方がいるのでそこはNGです。それはマルチタスクになるから。
また更に感じるのはその場の拒絶でもあるから、です。
そうではなく、その場の空気感、空、鳥や虫の声、を受け取ること、これがその場に”居る”、ということです。アダルトチルドレンや虐待サバイバーやヤングケアラーは居ても無視される、居たらいけないと扱われる、思わされる、役に立たないなら居てはいけないと存在を否定された人たちです。存在を消されてしまった人たちの総称です。
だから、居る、そこに”居る”とはとてもとても重要なことなのです。
居ていいんだよ、と自分に言ってあげること、その場を作ってあげること、が必要なのです。
子どもと、夫婦で、親や孫と、友人や仲間と食卓を囲み、たわいもない話をする。
テレビを消して。目の前のことに集中しましょう。
そう、新しいことを始める、というより現代人は一つ、二つ、何かをやめる、手放すことが
本来の豊かさを取り戻す一歩だと思います。
子どもと二人きりで食べたら話題が無い、その沈黙が気まずいからテレビをつける、とか逃げたらいけないです。
何を話を無理にする必要はないのです。
話がないならないで、そこで目の前にあるものを味わって食べること。
そしてまた、沈黙も味わうのです。例えば思春期でむすっとした子ども、を受け入れる。
例えばまだ言語を話さない赤ちゃんを受け入れる(言葉では話さなくても、身体で色々言ってますが)
それがその場を、自分を、子どもを、ありのままに受け入れること、なのだから。
入っておいで、ここに居ていいんだよ