悩んでいる状態、痛みがある状態、疲れ切っている状態、苦しんでいる状態、希望が消えた状態、
どれもこれも辛いことです。
なんで生きているんだろう、
わたしの人生とは何だったのか、
と思うこともあるでしょう。
でも、生きているから、
明日生きてると思うから、
それを感じられる、ということでもあるのです。
これからどうしよう
この子大丈夫?
わたし達家族はどうなるの?
あの人と会いたくない、(仕事や学校)行きたくない
それは未来がある、と言う前提でしか出てこない問い、です。
明日がない、今日が最後だと言う人には出てこない問いなのです。
辛いこと、苦しいこと、怠いこと、痛いこと、悲しいこと、
虚しいこと…絶望すること
いい事とは思えない、そんな軽いものではなく、死んだ方がましだと
いっそ、今楽に消えられたら、と感じるかもしれません。
いや感じることが当然なのかもしれない。
けれど、やっぱりそこに絶望を感じるのは、明日がある、と
あなたが信じていらっしゃるから、だということです。
その明日を、せっかくの明日を、一日だけでいいから
来ること(いや来てしまうと怯えている)ならば
わたしはあなたが少しでも何か意味が、自分にとっての人生の意味か
小さな”何か”が見いだせたらいいな、と思う。
そんなものありゃしない
わたしのようなものに、あるわけがない
あの人(恵まれた人)にはあるだろうが、わたしには何もないのだ
そう感じること。
分かるような気がします。
わたしもそうした虚無感や孤独の中に居たことがあるから。
でも年を重ねて今更に強く強く感じることがあります。
やっぱり生きること、は、他の命を殺すことです。
ビーガンだから?人参は切ってから一日置いておくと栄養が増えるそうです。
それはにんじんが痛くて自分の身を護る為に最後の力を振り絞るからです。
植物の悲鳴が聞こえないのは単に、わたし達の耳がとらえられないから、にすぎません。
知らない人、がした仕事のおかげで日々の生活が自分の自覚出来る普通、が出来たり、
遠い国の誰がが作ったもので、当たり前の日常がおくれている。
51歳になりましたが、国内に絞ってもこんな仕事をしてくれる人がいたからこれって動いていたんだ、
なんて知ることは沢山あります。つまりはほとんど何も知らないまま、です。
色々なことに、色々な人にお世話になって犠牲になってもらって、今の自分がいる。
生きている、生きてきたなら、天涯孤独だとしても、あなたは独り、ではないのです。
独りでは生きていないから。あなたの中に食事として頂いた命、があって、
あなたを守る屋根から地面、福、は誰かが、作っている。
それに無理やり感謝しろ、とは言いません。
でも、もしあなたが心の扉を開くことが出来て、そうしたことに自ら感謝が感じられた時、
その時、あなたは1000年の孤独から解放されることは、わたしがお約束します。
そしてきっと、あなたの人生の意味、も見いだせることでしょう。
人生の意味は何かを成し遂げることや業績だけではないからです。
または何もしていない人、はいないからです。
それは生きている、生きてきた、から、です。
生きるとは他の命を犠牲にし、誰かのお世話になっていること、それは間違いない。
しかしそれと同時に、あなたもきっと誰かのためにしたこと、が、ある筈だから、です。
それは生きている以上絶対にあるのです。
いや、なにもしていないのだ、と?
でもあなたはたった一人で生まれてきたわけじゃないでしょう?
お母さん、お父さんがいて、生まれてきた。
片親でした?虐待された?捨てられた?そうかもしれません。
わたしの例で言いますね。
わたしには子どもが一人います。
わたしが子どもに本当に感謝しているのは、その存在です。
わたしの人生は病気から始まり、機能不全の家族に学校の先生や他生徒からの苛めから
職場の上司のパワハラに、没交流の夫婦でカサンドラ症候群になった真っ暗な人生でした。
今思えば機能不全家族と同じことを友人関係で、学校で、職場で、夫と繰り返してきた訳です。
でもその人生の中で、わたしに光を与えてくれたのは犬と子どもでした。
何をしてくれるというより(こちらが世話をする方で)その存在が光、でした。
普通の親子ですからしょっちゅう叱りますし、喧嘩しますし。
でもどんなに喧嘩をしても、学校から帰ってくると雰囲気が明るくなって
それだけで、それこそが、わたしの光、でした。
本当に感謝しています。
わたしが死んだとき、子どもに手紙を残そうと先日ふと思いました。
そこにはこう書こうと思っています。
あなたの存在がわたしにとって光そのものだった。
わたしの心に明るさ、というものを思い出させてくれた、と。
何が言いたいかというと、我が家の子どもはなにか優秀な成績や賞状をもらったことも
他人に自慢できるなにかをしたわけではありません。
また犬たちもそうです。世話をしたのはこっちで、行きたくない日の散歩から
みんなの生活費を稼ぎ、もらしたおしっこを拭き、うんちをあつめ、疲れた体でごはんを作ったわけです。
でも
ただ存在が、ありがたかった。
それが温かかった。
それが生きる勇気になった。
だから何かをしたから意味があるわけではないのです。
いや親にすら虐待されたのだ、捨てられたのだ、きれいごと言うな
でも親って(いや人間って)、複雑で。
一時間癇癪おこしている赤ん坊にうんざり以上に思うかと思えば
翌日笑った笑顔を見てこんなかわいい子がいるのか、と思うのが普通なんだと思います。
だからたった一瞬、一回かもしれないけど、きっと、ああ可愛いと思ったことがある。
ただ捨てたり虐待した親は大半が逃げたのです。
あなたからも、自分からも。
そして親がいなくても、通りすぎた誰かが、あなたの笑顔や雰囲気にふと、ああ、と
緩んだことがあるかもしれないのです。
あなたの一言に感謝してるかもしれないのです。
あなたがそこに立っていたことが誰かの一生を変えたかもしれないのです。
それが自分で認識できないから、と言って”なかった”訳ではないのです。
生きているから。
もう一度言います。
生きている、ということは、たくさんの命に支えられていなくては生きていません。
そして、あなたはきっと誰かと共に何かを支える為に”生まれ、生きている”のだと言うことを忘れないでください。