本来のわたしに還る、とは
平たく言ってしまうと
とも言えるでしょう。
凡夫の悟りとは、
わたしとは、平凡な一人であり
そして誰しもが、そうである
故に、わたしもあなたも”
生きとし生けるすべては
みな平等である
ということです。
スゴイわたし、スゴイあの人
では、その人一人で
世界が完結してしまうのだから。
スゴイわたしって、
特別なあの人って、
それ以外の人は
その”スゴイわたしやスゴイあなた、
スゴイあの人”を褒め讃える為の
引き立て役、要員なんでしょうか。
いや、違う。
生きとし生けるモノ
すべてに、尊厳があるのだから。
ところで、戦前日本では
わたし、という漢字を
「和多志」
と表記しましたが
の提唱した、共同体感覚と
同じことだと感じます。
また、新フロイト派心理学者の
エーリッヒ・フロム曰くの
”ある”状態を共に
生の舞踏に参加した状態かと。
全ての人に仲間意識を持つ、
わたしではなく
わたし達、と考えること。
「ある」状態の前提は
与え、分かち合い、
関心をともにする生きた関係。
そして、和多志(わたし)とは
多くの、志(個々人)を和とす
それが、和多志(わたし)
だからです。
反面、戦後使われてきた
「私」 は
実り、垂れた穂を
小さく囲い、
その部分内を刈り取る
という絵を表記したもの。
つまり、
”わたしの取り分はこれだ”
と囲い込みした
まさにミーイズム、
いわゆる個人主義を追求したような意味。
平仮名でわたし、と
表記しているのはその為です。
この”私”という漢字は使いたくない。
最初に戻りましょうか。
お互いを、必要とし、
お互いを、尊重し合い、
得意分野を持ち寄り
支え合い、交流して、
和多志として、
一つの世界を創造することが
始めて可能になります。
凡夫とは、
いらない既成概念を
脱ぎ捨てた人のこと。
わたしを超えた、わたし、です。
無知の知とは、様々な偏見を通さず
自らと周りが見え始めたこと。
天狗になってる、あいつ
それはどんな時に言いますか
周りが見えない人を指すでしょう?
ところで現代社会は
比較、競争を
強いてきました。
スゴイ、ことは勝者。
優秀であること。
勝つこと。
誰かより、みんなより
輝いていなければ。
優秀な なにか
羨んでもらえる なにか
を、持っていなければ。
持たざる者は価値がない?
存在の意味がない?
生きる資格が、ない?
そうみんながみんなを
見張りあい、
競い合い、
やっかみ合い。
その誰も しあわせにならない
デットレース根本に
あることはなんだろう?
なにを?
誰から?
そして、誰よりも?
なんのため?
あなたは、
本当に、勝たねばならなかった?
それは本当に あなたの敵だろうか
ずっと競い合いをして
勝ったとして、
何が手に入れられるの?
それは、
あなた本来の氣持ち?
あなたの本当に求めているもの?
誰かの期待、
誰かの希望を
叶えようとはしていないか?
あの人から愛される
あの人から見てもらえる
あの人から認められる
そんな依存した、期待はないのか。
どっちだろうか。
競争をやめ、
つっぱることをやめ、
一人で意固地にやらず、
必死でその為の理由や正論
掻き集めた物質から
価値観、信念、信念から
解放され、
自らに、嘘をつかない。
自分、ただ一人になる
ただの自分に、なる
自分の悪い部分も、
自分の良い部分も、
すべてを受け入れて。
自らの隠も陽も、
すべてを抱きしめて。
そこに固定されることなく
一歩前へ、一歩前へ、成長し続ける。
病んだ自分も、
怠惰な自分も、
即ち、自分に還る
ただのわたしに、なる
すっぴんのままの、わたし
裸のままの、オレ
見せるの、怖いよね。
武装してきた分、
弱々しく感じるかもしれない。
肌寒いかもしれない。
その力があるのだから。
あの人が、スゴイと、
劣等感を持ち、卑屈になったり、
わたしが、スゴイと、
優越感から、他者を見下すことなく、
そんな上下の人間関係の
世界ではなく
たがいに目と目を見合い、
たがいに手と手を取り合う、
“和多志”という世界へと。
そして それは、
すっぴんのあなたのままで、
受け入れられる世界なんだから。
裸のままの、あの人を
受け入れる世界なんだから。
さて、本来の自分に還ったら
歩き出しましょうか。
ここからがスタートです。