心の声を抑圧すると”身”が病氣となって語りだす

なんだか初女さんの おにぎりが頭に浮かぶので書いておきましょうか。

書く前にちょっと調べたら、

初女さんはお亡くなりになったの乳がんだったんですね。
ということは悲しみの人だったんだなあ、と。

悲しみは胸に溜まりやすいからね。
(この前の心理療法のワークショップでも乳癌専門のお医者さんが来ていた。やはり患者さんの共通点って我慢する人、悲しみの人だから本当の予防やケアに必要なんじゃないかと思って、ってね)

そうか…。

こうしたこと、
心理の臨床の人間ならセッションを通じて
心の声が表現できないことで病へと
心が表現できなかったこと、
それが病となって”からだ”が表現し始めることを目にすることが多くある。

医者ではないので診断は出来ないし
心理療法を受けたら治るとは薬事法やらで言えない、が、でも、心の声を聴くことが出来たなら病によりよく寄り添えるだろうなとは、つくづく感じる。

喘息、花粉症、癌(部位によって感情が違う)、アトピー
リュウマチ、高血圧、顎関節症、メニエール、アルツハイマー病、腰痛・・・

抑え込んだ情動、無視した感情、
自分で自分を責める頭の中の声、
抑圧された心の代わりに”からだ”が
「違う!!!」
そう叫びだす、そういうことはある、と。
心が起因のものがあるのだ、と。

 

初女さんが救ってきた人、
それは悲しみを抱えた人だったし、
いっぱいいっぱい救われたけど、
わたしは初女さん自身も救われて欲しかったな、と思う。

そんな初女さんのおにぎりの話とは。

自殺を考えた人がイスキアにたどり着き、
一晩たっても死を考えていたけれど、
帰りに持たされた おにぎりを電車で開けた時、それを号泣しながら食べて、生きよう、そう決意した話。

わたしが作っても初女さんの作り方で作ると、とても良い香りがする。
だからその死を決意していた人が食べた 
おにぎりはご飯、というより魂の味がしたんだと思う。

その人曰く、
そのおにぎりはハンカチに包んであって、
その氣づかいに自分の存在を認めてもらった氣がした・・・と。
それが再度生きよう、
という勇氣になったと。

見た訳じゃないのに、
その電車の中の風景がわたしにはとてもリアルに浮かびあがる。

なんだか夜行列車のイメージ。
もうほとんどないのにね、夜行列車。

そしてガタンゴトンって昔の汽車みたいな音がしていて、その人は自分の膝の上でその包みを開ける。あけてしばらく眺めてから、そっと泣き出す。最初は静かに。
その車両にはその人しかいなくて周りには聞こえていない。どれだけその人の涙は心から湧き上がってきたことだろう。
おにぎりは冷めていただろうけど、どんなに温かかったんだろう、と。

 

話を病に戻すと、
癌になる人の性格って「良い人」。
とってもとっても他人の為に尽くす人、
嫌と言えない人、
笑顔を絶やさない人、愚痴を言わない人、
いっつも、
大丈夫、大丈夫、そう言って、さ。
人の分まで背負ったりしてさ。

まあ、癌だけじゃないね。
心の方で出る人もいるし、高血圧やら、
リュウマチやら、その人の弱いところ、あるいは得意なところ(表しやすい、という皮肉な意味で)から出る。

この前のクライアントさんの口癖も
大丈夫、大丈夫、だった。

それは大丈夫じゃないのに言う、大丈夫。

わたしは大丈夫なの。
体が悲鳴あげてても、
心が泣いても無視して言う。

そう言う無理をする為、背負う為、の
大丈夫、は大丈夫じゃない。
そうすると口が正しい氣持ちを言わないから”身”が代わりに語りだす。

「違う!もう限界だ、立ち止まって」と。

 

セッション終わり、
その方の病(複数あり)が落ち着いてきたと連絡あり。本当に良かった。
”からだ”の中で暴れるのが減ったと。
本当に良かった。

 

 

先ずは自分、ってこういう意味なわけで。

自分の心の傷と向き合って、
自分の本当の心の声を聴け。
様々な思い込みや、感情が溜まって見えなくなってしまった本当の心を聴き、
取り戻して、
そして汝のすべきことを全力でなせ、と。

 

だけどそれを心が傷ついたままのカウンセラーやら自己啓発の人はさ、
先ずは自分、自分を可愛がる、
自分を大切に、って一部を切り取って都合いい部分だけを100%に水増しして意味のわからんことを言ってる。
はっきり言えば、自分を大切に、じゃなくて自分のわがままをごり押しする、かな。
わがままは残念ながら本心ではないから、単なる迷惑な人にしかならん。

 

じゃあ、どんな感じよって、 
「社会貢献をして自己実現を果たした人」を心理学者が複数名長年に渡り追いかけた研究結果を書いておこう。

人や社会の為にしてるんだけど、
なんというのかな、そういう人は信念の人、で、自分がきちんと良いものだと思ってるし(独断とかじゃないよ)
自分の活動が正しい
(意味あるもの、と言ってもいい)
と確信してると言う傾向が見られた。

以下はインタビューの一部。

問)なぜそこまでするんですか?

答え)
なぜっていうか、わたしの生きる全てっていうのか
やってることが生きてるってことだし、
生きてるってことが、この活動そのもので
わたしと仕事、とか分けて考えたことがないからなあ。
やってること自体が自分そのものなんですよ。

 

これが神様に愛されてる人ってことでしょう。 

無理してない、
けれど、ラクしてない。
一途、
けれど、周りが見えている。
使命感がある。
けれど、背負いすぎてない。
と言うか自分が背負える量を適切に解ってる。

 

そして自分のなすべきことに対して絶対視してる訳でも、盲信してるのでもなく、
けれど、確信してる。
自分がそれを提供していることで他者に笑顔を産み出している、
それに対して自身がある。

我儘勝手に、
ネットワークビジネスの手法で
山のすそ野の人の稼ぎを吸い上げておいて

ラクして生きよう、
オレを見てくれよ、
何もしないけど金がはいる
生き証人だぜ、人体実験の結果さ。
マインドを変えればいいのさ、
簡単だよ。
みんなもオレに続いてくれ。

これからはそういう時代って言ってる人って
神様に愛されてるんじゃなくて、
ネットワークから愛されてる=搾取してるだけじゃない?

 

 

話を戻してまして。

無理してる人って、心の傷がうずいてる人、
駆り立てられている人、
で、その人たちは頭でいっつも余計な言葉でおしゃべりしてる。

 

ああ、因みに依存症の人も、そう。
駆り立てられた人、だ。
薬依存の人もそうだよ。
縛り付けられていきなり薬中毒にされたんならいざ知らず。
(ダイエットの薬って言われたりして飲んじゃったりね。ダメよ本当これ)

 

心の傷から逃れたくて、始める。

だから、薬を断てるか、とか、意思弱い、とか責めたり閉じ込めても無駄だと思う。
心の傷が癒されないと。
そうしたら、もう少し薬と距離を保ちやすくなると思う。
でも薬からの隔離や罰だけじゃ治癒にはつながらない。

でもねえ、わたしは思うんだけど。

薬物とか性犯罪者とか虐待する親とか、
被害者もいたり過激だったりするから
特殊な人って考えがちだけど、
違うんだよ。

だって抑えられない衝動や依存って、
それの快楽や欲求より深い部分に、

  • 空しい
  • どう時間を使っていいのか分からない
  • 暇、暇が怖い
  • 淋しい
  • 孤独

そういう心の空洞が奥にある。
虚構って感じかな。

これって誰でもあること、でしょう?
身に覚えがない人はいないでしょう?

 

だから、

そんな特殊な人、精神がおかしい人、
わたしには関係ない、ってことじゃないのよ。

この虚無感に駆り立てられて、
時に人は薬物に、性衝動に、買い物依存に、不倫に、ゲーム、スマホに、走る。
(走る方向はその人の嗜好やらもあるから
それは様々だからなんとも言えない)

 

たまにクライアントの人で、
なんで自分はこんななんだ、
普通の人がズルい、
羨ましい、
または自分はメンタル弱いダメな人だから
って言う人がいるけども、

 

でも”普通の人”ってあんまりいないよ。
心に傷がない人って、完璧な親や完璧な先生がいないみたいに、なかなか、いない。
勿論、人間が出来た親と素晴らしい先生もいるよ、だけど大半は、不完全だ。
自分が虐待された、って自覚がある人の方がよっぽど自分に近づけているかもしれないぐらいで。
(虐待現象自覚のしやすさ、
しにくい虐待があるからそれは別として)

 

だから街中に心を誤魔化して自分はカウンセリングやら心療内科なんてまったく関係ないでございます、って思ってる、信じてる、信じる様努力してる人がどれだけいるか。

その中に鬱とかにはならない替わりに、
身体が悲鳴を上げて病氣になる人もいるのさ。

かなり前にパート先で会った人、わたし程自由に生きてる人はいない、嫌ならことなんて何もない、そう言ってたけど若いのに薬を飲むほどの高血圧。
(他からチラッと聞いたら旦那さんと離婚したいぐらい暴君だ、と)

 

多分、

心から湧き上がる声:
もう嫌だ嫌だ嫌だ、わたしは違う生き方をしたかった、こうじゃない

 

抑圧する思考の声:
違う違う違う、わたしは幸せ
わたしは自由に生きてきたじゃない

 

そんな声が彼女の中で常に言い合ってる。
言い争うと言うより、
思考の言葉が本心を抑圧してる。

そうすると身体が硬直して廻りが悪くなり、圧力を強くしないと血液が回らない。
→高血圧、と、声なき声を身体が訴え始める。

そんな風に。

 

 

それに子どもの運動会や保護者会とかで氣を感じながら、しみじみ思うよ。
どんだけ子どもと親が集まる場所で氣が悪いか。顔は笑ってカメラで必死に我が子を追う親と子どもとの心に距離があるのか、と。

因みに虐待、って言うと、
①ネグレストやご飯、暴力、性的な、とかだけじゃない。
←これは”自覚しやすいモノ”グループ。目に見えやすい、とも言う。

 

②過保護だったりすること、共感不足やら、
←自覚しにくいグループ

が、あるからねぇ。
目で見えないモノも、キツい。

(うーむだけど、自覚しやすいモノ、ですら、そんなことはないって信じる努力をしてる人も多いのは記しておきます。
このパターンはクライエントに多い。

セッションに来るけども、
いえいえ、うちの親は可愛がってくれましたって方向のパターンだね)

なんだか書きたい事をつらつらと。

桜の花びらがはらはら散る様のように
そんな感じに書きたかったのです。

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