潜在能力/潜在意識/二つの対する法則螺旋について

改めて、瞑想とは何か、また自立とは何か

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はい、瞑想をマインドフルネスとか
カタカナにするとなんかライトな感じ、
お洒落な感じがしますが同じこと。

瞑想はやり方が正しくないと危ないです。
また難しいものです。

最近は瞑想ルーム、ヨガの中で瞑想の様なことをしたりしますが、あまり勧められないです。

 

話はズレますがヨガの先生って綺麗なアーサナをしたりしているので心身共に健康そうですが、実際には心身ともに壊されてる人が多い。
自己啓発のセミナージプシーとか多いし、身体では、女性は股関節を始め、関節や中身が故障している方のなんと多いことか。もちろん瞑想もインドに行った、習った、とか好きな人多いですよ。が、自分に迷ってる人ばっかりだったなー。(まあ、迷ってるからヨガにはまっていったのでしょうけど)で、ヨガ教えて瞑想を導いてるのが大半…怖い。
まあ、一時間のフィットネス程度なら大したことはないでしょうが、この前のブログに書きましたが

”エネルギーを奪う人から身を守る方法” そしてエネルギーとその他の相関関係
リラックスも、ゆるむもさ最初は大切よ、緊張してガチガチな人とかは。でも、緊張を解いてゆるんだ状態でそのままにしちゃったら駄目です。統合して初めて人は真価を発揮することが可能となるのだから。 整体やらボディワークやらカウンセリングやらで...
瞑想中は性交渉よりエネルギーが影響し合うので、ヨガをする場合、わたしは有名無名に限らず先生は厳選します。
 
それに今のアメリカ発のヨガって、マハラジャへの披露パフォーマンスの為に伝説のヨガの達人が確立させたものを、あまりのポーズの美しさに惹かれヨーロッパのバレエダンサーが学びたい、となったものが始まりで、それを東洋の神秘系が好きなタイプの欧米系の人がヒッピーブームと合わさりヨガフィットネスとして忍者タートル的になったものが、
今の巷のものでしょう?
 
そもそもインドはまだまだカースト※が根強くて、バラモン(一番上位、司祭)の本当の秘儀は外部、ましてや外国には伝えないと思われます。
※政治の票集めのため1950年代から人数の多い下位を優遇する政策などで更に複雑な問題を孕んでいる。
 
 
実際、お坊さん、瞑想の道士も氣が触れたりおかしくなった方々いらっしゃいます。←この方々はプロって感じでしょ?
プロでもおかしくなる。
おかしくならない為に規律戒律が沢山あるんです、比叡山とかには。一見意味がない、古い習慣、無駄、その中に、氣が触れておかしくなった人にならない為、のモノがある。
だいたい瞑想や修行(何日も寝ないでぐるぐるただお堂内を周る、とか)やったらわけわからん状態になるのは当たり前です。
それでも歴史が長いもの、はその経験上、こうした方が失敗(氣が狂ったり、死んだのが少なかった)というものが規律になっていったのだから。
 
なので、某新興宗教
(今はない、戦前にあったもの)
の中には神秘体験=教祖の力的なもので、信者にも瞑想的の世界を体験させ、結局、ほとんどの人がおかしくなってしまったことでなくなったものやら(生き残りが2派に分かれ、新しい展開をし、今も現存していますが神秘体験を継承はしてないです)
 
で、先日、瞑想病になった方、しかしなんとか脱した方←珍しい、と会いました。なので以下に症状を書きます。
 
おい、田中(仮名、だけど本人の名前)
呼びかけてくる

それに煩い、黙れ、と答えたら

いやいや黙らないね
田中、田中、田中…ははははは
という声が大声で聞こえる。

かと思うと、ドラムセットのドラマーがバシバシ叩く
音が幻覚と共に現れて鳴り響く。
あまりの煩さに安眠できない。
 

こういった状態が24時間、1年続いたそうです。
正直よく氣が狂わずに生き延びられたな、という感じです。
この方の動機は寺や神社やパワースポットが好きで何か能力が欲しかったのと、凝り性なので結構な時間を瞑想に費やした結果だそうですが。
確かに特異な体験をされましたが(こういうのを神秘体験だと勘違いしてる人もいるよなあ)
わたしはしたくない体験です…。

 
ですから、わたしは瞑想とは
意図してやるもの、ではないと思います。
何かを続けていたら、それは瞑想だった
と後から氣づくもの、
または大いなる何か、にやらされるもの、
だと感じています。
 
なので瞑想を勧めてきたり、
瞑想は簡単だと言う人がいたら要注意です。
 
意図してやる時、人は、心のどこか、に、神秘体験を感じたい、変わりたい、などと言う欲望があるから、です。
顕在意識の意図は=エゴや虚栄心の産物だから間違えるのです。
 
埋もれた潜在能力を発揮したい、
お坊さんや瞑想同士なら
より仏に近づきたい、
より凄い体験をしたい、
今の自分を変えたい
など、なにか。
 
 
上記の方は、
そうした意図が違った場所に繋がってしまわせたので、幻聴、幻覚が現れたのです。
繋がった、というとスピ的なら、
脳科学的に言えば必要のない部分の脳が暴走してしまっている、または萎縮、または接続不具合が生じた状態、ということ。
 
ただし、
それが魂に沿ったものだった場合は
それが、ないのです。潜在意識の奥からの声だから、です。
 
だから悟りの瞬間、が
来た時に、ああ、あれが、あれらが瞑想だったのだと、後で瞑想状態を習慣化していたことに氣がつく。
つまり順番が逆になっている。
 
 
それは座禅を組んだりするのではなく、
日常の仕事上に、生活の中に、もなろうと思えばなれるからです。
だから、ふ…と、ああ、と振り返った中に
あれこそが瞑想と同じことをしていたのだ、と氣が付く。
そこに、”意図”は無い。
潜在意識の世界は意図や目的があったら
いけない、んですよ。
 
人は弱いものです。
 
 
つい何か御利益や、
奇跡を期待してしまうもの。
悩んでいたり、コンプレックスを抱えていたしたならば余計にそう思ってしまう、思いたいものでしょう。 
 
それは大変、人らしい。

だからこそ、危険だ、と言いたい。
だからこそ、順序を逆にしなくてはいけない。
 
 
ですから、
わたしはこの2人の方をあげたい。
この方々は大いなる何か、に
巡り合わされ、それに応え続けたもの、
それが瞑想の正しい姿だった、と。
 
  • 解剖学者の養老孟司さんの解剖
  • 酒井大阿闍梨の修行
 
瞑想はだから、
ただ、心を空っぽにする、とはどういうことか、
と言えば、
我を手放すこと、です。
我儘、の反対。
我、とは、私。
 
私が、した、してきたこと
私を、見て、聞いて、
私のモノ、
 
などの執着から解き放たれ、
私という小さな檻を出て
和多志(わたし)になること。
 
 
そうした大きな心、忘我の状態になると、
どんな命も、どんなものも、全ては尊く等しい。
大きなもの、には
大きなものにしか出来ない役割、
小さなものには、
小さなものにしか出来ない事、
があるのだから羨んだり、
自己卑下をする必要もなく、
すべてはただ、在るのだ。
そう受け入れた時、本当にただ、それぞれの役割に直向になるこことが出来るから、です。
その為のことに氣づく道の一つに瞑想があるのだと。
 
 
そして自分も、他者も、ただ”ある”。
そして、自分の役割に邁進することで自立することが出来る。
自立するとは、直向に努力して誰かを支えることと同時に、誰かに支えられること、もあるのです。
自分一人で意固地になって「助けて」が言えない人ではない。孤独、孤立が自立ではありません。
 
 
だって、”和 多 志”、多くの志を和とする、そこは1人ではない、世界が広がっている。
世界は一つではなく、自分の殻から出たら、そこは多次元的にさまざまな他者が同時に存在する、つまりはすべてのモノが尊く等しい、ということが腑に落ちた、ということだから、です。
 
 
追伸:
色々と疲れてしまった、心労が重なった、雑念で頭が忙しい、などでリフレッシュしたいなら、つまり安全に瞑想したいなら、禅寺で自然に近い場所でお坊さんの導きの元、更にその方の指導も「心の荷物を目の前に一つづづ置いていくのですよ」(これはフォーカシングの一つでもあります)的なことを言ってくださる方のところで心静かに行うのがよろしいかと思います。

参考記事

意識の使い方に関して
先日、引き寄せなどで有名な方が自分が発見された?とかで意識の使い方をコンサートのような場所で発表されてました……そのやり方は瞑想の魔鏡の危険性を心得た人たちなら多分、常識のこと。だいたい瞑想って、なかなか危ないのです。やり方を間違...
【重要】本来の ”わたし に還る” とは
本来のわたしに還る、とは平たく言ってしまうと“凡夫の悟りである”とも言えるでしょう。凡夫の悟りとは、わたしとは、平凡な一人でありそして誰しもが、そうである故に、わたしもあなたも”生きとし生けるすべてはみな平等であるということです。...
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